(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
強烈なショックが見えるような気がする
この紙面を借りて、幾度も書いてきたがやはり、ろう学校の跡地にぜひ西郷さんたち多くの卒業生たちの命をかえりみぬ熱き思いを永遠に記録してほしいと何度も思う。
夜なべもくり返し 一日11時間労働
戦後7月。
西郷さん17歳。
洋服店での見習い。
一日11時間労働。
しかも家に帰ってのミシン仕事。
夜なべもくり返し無我夢中で働いたことが証言からもうかがえる。
20歳の時に職人として洋服店で必死に働き、もらった歩合制の給与を家に渡せるようになり、30歳で結婚。
両親がろうあ者
赤ちゃんを育てるのは
想像も出来ない苦労
二人の子供が生まれ、両親が厳しく優しく援助されたと西郷さんは証言している。
この時代。「名もなく貧しく美しく」の映画ではないが、両親がろうあ者の場合、赤ちゃんを育てるのは現在では想像も出来ない苦労があった。
子どもたちが賢く育ってくれた、と西郷さんは誇らしげに手話で語った。
働くもののみが現せる表情 誇り高き姿
洋服の仕事は、波があり生活は安定しにくかった西郷さん。
32歳で店を変わらざるを得なくなり、腕をどんどん上げていく。
よそ見をしていても縫えるほどだったと言う。
37歳の時に3回の手術をしたが、生き延びてきたと証言する。
45年間働いた洋裁の仕事を62歳で終えたが、証言したときはその腕を生かして、バッグを縫っているとのこと。
扉の西郷さんの自信に満ちた顔。
顔つきが、中島さんのカレー職人の顔つきと重なって見えるのは、はたして私だけだろうか。
長い年月をかけて、腕を磨き、ものを作ってきた働くもののみが現せる表情。労働者の誇り高き姿がある。
結婚してから一度も夫婦げんかは
しなかったと言い切る愛情
苦労ばかりの時代を生き抜いてきた西郷さん夫婦は、結婚してから一度も夫婦げんかはしなかった、と言い切る愛情で今は二人きりの生活をしていると言う。
自分はたまたま生き残ったが、もう二度と戦争を起こしてはならないと伝言する。
そのための記憶をたどっての絵だったのだろうか。
二枚の絵を注視すればするほど細部にわたる微細な悲惨な情景が描かれている。
今一度、みんなで西郷さんの絵を見つめ直したいものだ。