手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

京都府ろうあ協会はろうあ者の手によるろうあ者のための事業をはじめたが 京都ろうあセンター はなぜつくられたのか⑪

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手話を知らない人も

                     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介

 

   1955(昭和30)年、私立京都聾口話学園管理者たちは、第二教室と呼ばれていた建物付属施設一切を京都府ろうあ協会会長の明石欣造宛にその一切の権限を「譲渡」する。

 

 1955年京都都府ろうあ協会は
      授業場、集会所をはじめる

 

 そのため京都府ろうあ協会は、登記して京都府ろうあ協会の授業場、集会所として利用する事となった。

 

 第一事業場として洋服仕立て事業、第二事業場として印刷事業として京都府ろうあ協会の事業を始める。

 

 さらに翌年、第三事業場として洋服部分品加工をも始めるが、事業は困難続きであった。

 

 ここ事業は複雑で多岐にわたる問題を抱えていたが、1955(昭和30)年11月につくられた京都府身体障害者福祉センターの実習補導所とされ、数名のろうあ者が技術を習得してそれぞれの職場に巣立って行った。

 

事業所だけでなくろうあ者の
さまざまな集会や夜間成人学級を開設

 

  京都府ろうあ協会は、第二教室と呼ばれていた建物を事業所としてだけでなく、ろうあ者のさまざまな集会や筆談・数学などの夜間成人学級をつくった。
           
 ところが、1956(昭和31)年4月。

 

 正体不明の利権屋たちが暗躍して、第二教室のある寺側を扇動して、ろうあ協会と第二教室の立ち退きを要求してきた。

 

 そして、京都府ろうあ協会の誠実な努力が踏みにじられ、寺側は裁判することまでの事態を発展させることになる。