手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校で口話と手話に分けられて教育された歴史を乗り越えていたろう学校の生徒たち(3)

 (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

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 ろう教育で押しつけられたコミュニケーション。教師はそのコミュニケーションを対立的にとらえて、生徒たちに教えた。

 生徒たちはその影響を濃厚に受けた。

 だが、押しつけられたコミュニケーションを自分たちのものとするために交流し、話し合い、納得しながら意思を伝え合った。

 

 同じ仲間同士のコミュニケーションは、同じ仲間同士の中で対立を乗り越えまとめあげられていった。

 

 この記録されていないろう教育の歴史を学び、卒業したろうあ者の人々が証言している事実こそ、私たちは重く受け止めなければならない。

 

 押しつけや強要ではなく、対立を乗り越えまとめあげられていったコミュニケーションを。

 

ろう学校で口話と手話に分けられて教育された歴史を乗り越えたろう学校の生徒たち(2)

  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

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ろう学校で口話と手話に分けられて教育された歴史を乗り越えたろう学校の生徒たち

    特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

    

11年間のろう学校教育を

 

 渡辺さんは、70歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 お母さんの妊娠中の病気で耳が聞こえなくなったこと。

 

 大浦に住むようになったこと。

 8歳の時にろう学校に入学したことを証言している。

 

 そのころのろう学校は、口話と手話に分けられた。

 教室で学習していて、渡辺さんは口話の教室で聴能教育によることばの教育を受けたことを鮮明に記憶している。

 

 アメ、お父さん、お母さんの分別や発語指導を受け、中学部になると和裁を学ぶようになり11年間のろう学校教育を終え、結局、家事手伝いをするようになったと証言している。

 

   手話教育を受ける生徒より優秀だと序列化

 

  渡辺さんは、単に口話だけでなく、聴能教育によることばの教育を11年間受けた事を覚えているのである。

 

 ろう学校での教育が、口話と手話に分けられたのは、京都も同じであった。

 口話と聴能教育を受ける生徒は、手話教育を受ける生徒より優秀だと序列化されていった。

 

 だが、生徒たちの共通のコミュニケーションとしての手話は、教え合い、伝承され創造されていった。

 

 この押しつけられたコミュニケーション手段を自分たちで創造的に受け止めまとめあげていった歴史をきちんと踏まえなければならないと思う。

 

 私の手話の師である故明石欣造さんは、私にそのことの大切さを数え切れないほど教えてくれた。

 そのため私はその明石欣造さんの話を記録しておいたので以下紹介したい。

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被爆直後の長崎の情景は決して語られていない 語ることすら出来ない

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

     恋い焦がれてもとめる学校

 

 生きると言うこと人生の生き甲斐が学校教育とオバーラップしていた時代。
 
 どんなに恋い焦がれても、聞こえない子どもたちから学校をいとも簡単に持ち去ってしまう時代。現在は一見まったく異なって教育は保証されているように見える。

 

 でも、恋い焦がれてもとめる学校は存在しているだろうか。

 

 恋い焦がれて行ける学校とても無理な「常識」だった時代を田崎さんたちは、潜り抜けてきた。

 

     血の海の中で失われたふたつのいのち

 

 田崎さん14歳。

 

 田崎さんにとって妹弟となったであろう新しい生命の誕生に出会うこともなく、さらに不幸なことに新しい生命とともに母のいのちも消え去る事態に出くわす。

 

 血の海の中で失われたふたつのいのち。田崎さんはどれほどの衝撃を受けたことか………

 

 それから1年余の彼女15歳の最も多感な時期、もっと巨大の衝撃が降り注ぎ炸裂する。

 

黄色のものが

広がって口に爆弾が入った

 

 8月9日。

 学校に通えなくなって家事に専念する田崎さんは、いつものように川で洗濯をしていた。

 

 その日はひとりだった。

 

 黄色のものが広がって口に爆弾が入った。

 

 恐怖に追われて防空壕に。

 

 4時間以上籠もって外に出た。

 

 家のガラスはすべて割れ、泣きながら掃除し、家族との再会し、夕ご飯を食べて就寝する。

 

 田崎さんは、次の朝、喉に違和感を感じて病院に行くことになる。

 

 家から病院までの恐怖を超える空前絶後の情景を瞳に飛び込んでことを拒絶して、ひたすら下ばかり向いて歩いたと証言する。

 

 田崎さんからは被爆直後の長崎の情景は決して語られていない。

 

 いや語ることすら出来ないでいるのだ。

 

 思春期に受けた衝撃は、彼女を一層寡黙にしたことだけはたしかだ。

 

 田崎さん37歳。

 

 父の死によって、働きに出ることになる。

 

 田崎さんは仕事を転々とする。

 

 そのうえ兄嫁とのトラブル。

 

 51歳になって本当のひとり暮らし。

 

 二畳の間より広い部屋で感激したと言う。

 

 今が一番しあわせ、と言い切る人生

 

 34歳にしてろうあ協会に入り、また新しい友だちも出来た。

 

 腹立つこともなく、気を使うこともなく、大浦診療所に通院できる、今、が一番よくて、幸せだと言い切る。

 

 朝7時に起きて、ゲートボールの練習に行き、20歳の時に撮った父と兄の写真を大切にして、たくさんのろうあ者の仲間と暮らす日々。

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 顔中笑顔にして手話で語る田崎さんに人生の喜びの意味を味わう人も多いことだろう。

 

 物心つき、希望に胸を一杯にする人生一番の楽しい時期に、あらゆる哀しみを味和された田崎さんは、今、もう一度思春期を潜り抜けているのかもしれない。

 

 それが証拠に、P143の田崎さんが証言している写真の顔は、まさに思春期の顔そのものであることで示されている。

 

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表情たっぷりの手話 ユーモアたっぷりの手話 にある無念な時代の流れ

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

  私は、2000年8月上旬、長崎市大浦診療所で入院・治療を受けていた。その時、田崎さんに8月9日の集会に誘われたけれど、どうしても帰京しなければならなかった。

 

   田崎さんの表情たっぷりの手話

 

 翌年も同時期に入院したので今年は、一緒に集会にでられると思ったのに、田崎さんと出会ってもお誘いがなかった。

 

 田崎さんの表情たっぷりの手話に思わず、治療中の苦しみと哀しみと激痛を忘れるほど、ユーモアたっぷりの手話が流れていた。

 

 田崎さんは、転倒を繰り返し怪我をしていたが、硬直した足の筋肉は1年間で和らぎ、転倒しなくなっていた。

 

 このとおり、と足を伸ばしたり、曲げたりしてくれて見せてくれた。

 

 長崎市大浦は、坂の街と行ってもいいくらい。人が一人ようやく歩けるような坂が無数にあり、その坂もとてつもなく急傾斜である。

 

 地獄坂と呼ばれる坂があるぐらいで、歳をとると坂を降りて買い物にも行けない。

 

 小売店の人が、坂を駆け巡り配達している姿を幾度も見たが、坂の上からの絶景に反比例して生活は大変であった。

 

    普通学校に入学できていたが

    多くの聞こえない生徒を

     苦しめたことになるだけだった

 

 そのひとときが懐かしく思い「原爆を見た聞こえない人々」をもう一度読むことで田崎さんが大浦で生まれたことをあらためて知った。

 

 田崎さんは、57歳の時に被爆体験の証言をしてくれている。

 

  もう30年の時日が経っている。

 

 彼女の証言は、長崎ことばで表されている。

 

 彼女は中耳炎から次第に失聴していったのだろうか、小学校3年生まで大浦小学校に在籍することになる。

 

 全国的に田崎さんのような例は数多くある。

 

 形だけの学校在籍。

 

 古くから普通学校に入学できていたが、多くの聞こえない生徒を苦しめたことになるだけだった。

 

 彼女は、いじめにあい10日程も小学校に行っていないと言う。
 
  哀しみの中の在宅生活。

 

 幼き子どもの田崎さんにとって学校は、次第に遠ざかるだけだった。

 

     失意の内から

楽しさが見えてきたのに14歳の時に

 

 大浦小学校と上野町の盲唖学校。

 

 距離はなく、長崎県全体から考えても極めて近い場所なのに、聞こえない子どものための学校であることすら孤独に生きてきた。

 

 田崎さんの家族も盲唖学校があった事も知らなかった閉ざされた時代。

 

それまた田崎さんの生きた時代を映し出している。

 

10歳にしてのもう一度、盲唖学校の入学式。

 

そして新一年生。

 

田崎さんの胸に不安は限りなく増大していた。

 

 母ちゃんの手に必死にしがみつく、田崎さんの姿が目に映る。

 

11歳で、友だちと通学。

 

失意の内から楽しさが見えてきたのに14歳の時に、母ちゃんが死ぬ。

 

 田崎さんにとってかけがいのない大切な学校が、ここから引き裂かれたことになる。

 

 この無念な時代。

 

 私たちは、決して忘れてはならないのである。

 

木戸さんの手話 人間の表現やコミュニケーションの無限 人間には限定や制限のない自由表現が存在していることの証明

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    (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

  あらゆる想いが籠められていた原爆雲

 

 木戸さんの原爆雲の手話表現。
 あらゆる想いが籠められていた。

 

 通常、30秒の出来事をこれだけ細やかに時間をかけて手話で説明することは不可能である、とも言えるのではないだろうか。

 

 手話の強弱は、表情や動きや時間と空間の描き方でも表現される。それだけ多彩で留まる事がないほど多くある。

 

 人間の表現やコミュニケーションの無限を表していると同時に人間には限定や制限のない自由表現が存在していることの証明である。

 

 哀しみという言葉で語られない手話表現の中に、表現の自由を保障しなければならない事を想起していきたい。

 

    人にはなすことは堅く封印していたが

 

 道の尾で止まって汽車を降り、木戸さんもまたほかのろうあ者の人々が通ったように線路上を歩いて爆心地を通る。

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 このときの木戸さんが感じたことのすべては、「原爆をみた聞こえない人々」の写真がすべてを語っている。

 

 木戸さんと会って多く語り合っただけに私はこの写真を見て恐怖と戦慄は消せない。

 

  翌10日から、木戸さんは長崎市内で生活を再開するが、人々と風景は決して脳裏から消え去ることはなかった。

 

 でも人にはなすことは堅く封印していた。

 

   原爆手帳を手にすることも

              聞こえないがゆえに

 

 原爆手帳を手にすることも聞こえないが故にわずかながらの補償も放置されていたことを淡々と述べる、木戸さん。

 

 木戸さんの、人柄だからそうなんだ、そう言うのだ、ということで済ましていいのだろうか、と思う。

 

 残虐で非人道的な原爆投下。

 

 それ以降でも人道的な救済は行われてはいなかったというあまりにも惨い現実。

 

 笑みを戻した木戸さんが、原爆投下後の生活をなめらかな慈愛に満ちた手話で語ったかと思うと、悔しさはつのるばかり。

 

  木戸さんは、自分の周りは親切な人ばっかりだったと言う。

 近所の人、師匠、ろうあ者の仲間、妻……
 
       自分の和裁人生の最後にすると言いながら

 

 60歳になって生まれた娘の成人式の着物を縫う。

 

 それを自分の和裁人生の最後にすると言いながら針を持ち続け、被爆体験を言い終えた木戸さん。

 

 私は、取材のために和裁の仕事をする木戸さんの家に訪れたこと思い出している。

 

   何事もなかったかのように一つのまっすぐな流れに戻っていく

 

 一つのまっすぐな流れが、途中で激流となり、また何事もなかったかのように一つのまっすぐな流れに戻っていくような、そんな時に私は木戸さんに会っていたのだ。

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 人生も終演に近づいていることは十分承知しながらも、飾ることなく実に素直に何もかも、打ち分け語ってくれた木戸さんのあの時、あの時間。

 

 もっともっと大切にするべきだった。

 

 それだけの想いが込められたものを受け止めて、取材で撮影した写真をみると、木戸さんの惚れ惚れとする手捌きが残っていた。
                         

 

 

30秒をスローモーションの手話で表現される 黒から赤に 赤から黄色にそして赤になる原爆雲

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

    ひたひたと押し寄せる

    戦争の雰囲気を感じつつ

 

15歳。

 

 もっと学校に行きたかった、友だちと居たかった、と学校への切なるねがいは社会の現実が切り裂いてしまった。

 

 そのねがいをどこまでも大切にして、学ぶ機会を保障して欲しい、という木戸さんからのメッセージが読みとれる。

 

 15歳から21歳までの木戸さんの弟子生活。

 

 師匠宅は、川一つ隔てたほんの近くだったのに、家と師匠宅で木戸さんの青年時代は終了する。

 

 日本は大正時代から昭和の時代に切り替わり、ひたひたと押し寄せる戦争の雰囲気を感じつつ木戸さんは独立し、結婚する。

 

 好きな相手と結婚できなかったが、弟子と結婚した、と証言する木戸さの表情が何となく読めてくるから不思議だ。

 

 それから20年間。

 

 木戸さんは家族とともに一生和裁で生活をしようと仕事を続けた。

 

 あの時代。

 

 誰しもが手に職を持っていれば、一生、生きていけるのだと考えた。

 

 ましてや、腕のある職人なら、食いっぱぐれはない、と思われただろうし、そう思っても間違いがない社会だった。

 

 木戸さん40歳過ぎ。

 

 和裁の注文が入らなくなる。

 

    運命は木戸さんを救う

 

 日本は、戦争に突入していた。

 

 今までの仕事、人生、家族、人々などあらゆる物が軍事色で塗りつぶされ、その色は、木戸さんの上にも例外なく降り注いできていた。

 

 原爆投下された日。

 

 運命は木戸さんを救う。

 

 妻と子どもの疎開先に急きょ赴いた木戸さんは、長崎市内に黒から赤に、赤から黄色にそして赤になる原爆雲をみる。

 

 原爆投下された方向を微細に記憶していた。

 

 あまりにも大きな衝撃と比例していたのだろう。

 

 30秒にすぎない一瞬の出来事をスローモーションの手話で表現される。

 

 0.1秒が途方もなく長い時間のようにとらえられ、それが自分と多くの人々を苦しめることになる。