手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

障害児と聞こえる子供たちがたがいに学び合い共に高まり生きてゆく基礎は教育にあり 学校にある

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手話を知らない人も

                     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 大矢さんは、失聴してろう学校に入学した鋭敏な感覚で、学び、これらの教育問題を簡素に述べていた。

 

  人数が少ないからとかいって
舞鶴盲聾分校中学部を廃止することは
人間性の破壊と地域つぶし地域の破壊

 

障害児と聞こえる子供たちがたがいに学び合い共に高まり生きてゆく。

 

 その基礎は教育にあり、学校にあります。

 

 機械的に一つの学校に障害児を入学させるだけでなく、障害児教育機関としての学校が、地域の一般学校とつないで機能してこそ、こうしたすばらしい子供たちに育つのです。

 

 人数が少ないからとかいって、舞鶴盲聾分校中学部を廃止すること。

 

 それこそ地域から障害児・者をしめ出し、そして、弱いものいじめ、弱いものを排除する地域にすることであり、人間性の破壊と同時に、まさに地域つぶし、地域の破壊につらなってゆくでしょう。

 

人間として豊かに発達し合ってゆく
 地域づくりをめざしてゆきたいと

 

 従って、舞鶴盲聾分校のお母さん・お父さん方の

 

「義務教育は地元で、さらに分校に高等部を」

 

との願いは、一方では人間が本来人間として豊かに発達し合ってゆく地域づくりをめざしてゆきたいとの大切な意味を持っているのです。

 

 舞鶴盲聾分校中学部の統廃合は、教育・福祉切り捨て、軍拡の臨調路線のろう教育版に他ならないといわれています。

 

 この本質をつかみ、これまでつちかってきた民主主義の地力を一層中学部存続の闘いに結集してゆかねばなりません。

 

 そのことは、ろう学校の本校が、単にインテグレーションへの現象的矛盾という一面を大きくのりこえ、聴覚障害児の発達保障をめざす教育機関への発展と、私たちの願いを実現することにつながるものです。 

 

「つんぼがうつる」どさわいでいた子供たちが 舞鶴盲聾分校が高野小学校との共同教育のなかで

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手話を知らない人も

                     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
 
 学ぶ目的、生きる目的、その道すじ。

 

 これを小学校・中学校と9年間を通してできなかったこの大切なことを、私はろう学校高等部の3年間で学ぶことができたのです。

 

ろう学校に学んだことを誇りとして

 

 今日、インテグレーションの波におされ、ろう学校から普通学校にすすむ「ろう学校ばなれ」がすすんでいるとはいえ、私は京都ろう学校に学んだことを誇りとしています。

 

 これは、分校で学んだ仲間にとってもおそらく共通の想いでしょう。

 

 そして、私の苦しかった昔の思いも、今大きな変化を示してきています。

 

( 注:京都ろう学校幼稚部では、1965年頃からさかんにインテグレーションが叫ばれ、大矢さんが話をしている頃には、幼稚部の生徒は、ろう学校小学部に行くことはなくほとんどが普通校に入学していた。 )

 

全校の生徒の前で
 私の歩んだ道を話しすると

 

 とりわけ、舞鶴盲ろう分校は10数年も地域の小学校・中学校との共同教育のとりくみによって障害児・者が主人公の一人として生きてゆける地域づくり、を理念のもとに、一人ひとりの民主的人格の形成にとりくんできた長い伝統を今日も蓄積し続げているのです。

 

 私は3年前、舞鶴盲ろう分校の隣にある城北中学校に招かれ、全校の生徒さんの前で、私の歩んだ道をお話しさせていただきました。

 

 1時間をこえる長い話しではありましたが、1000人の2000もの瞳は、最後まで私にそそがれ、その上、分校と交流しておられる2年生の教室まで引っ張り込まれて、もっと話してほしいと言うのです。

 

共に学び合うなかで
「つんぼはうつらない」ことを自ら確かめ

 

 舞鶴盲聾分校が高野小学校との共同教育をはじめた当時、分校の子供たちと手をにぎると「つんぼがうつる」どさわいでいた子供たち。

 

 しかし、共に学び合うなかで「つんぼはうつらない」ことを自ら確かめ、

 

「同じ人間であること、耳がきこえず、しゃべることもうまく出来ず、勉強することも大変なんだ」

 

という、すばらしいとらえ方ができるように成長しているのです。

 

 さらに、人間に対する深く限りない愛情も育ち、そうした子供たちは大きくなり、今日では、地域の手話サークルに参加しているのです。

 

何一つ人間的な叫びをあげられない自分の姿  聞こえる高校生と交流して

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手話を知らない人も

                      手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 私にとって、何よりもやりきれなかったのは、そんな奴隷みたいな姿に何一つ抗議できず、逃げるしかなかった自分の姿そのものでした。
 
 石を雨アラレのように投げつけられても、それでも何一つ人間的な叫びをあげられない自分の姿でした。

 

いじけた つまらない人間だった

 

 中学卒業後は、人から笑われもせず、石も投げられない一人で働ける百姓が向いているとだけしか考えられない自分に対してでした。

 

 何という、いじけた、つまらない人間だったでしょうか。

 

 この私の姿こそ、小学3年から中学生にかけての私への教育の到達点ではなかったかと思うのです。

 

 しかし地獄にも仏と言います。

 

 聞こえる高校生の方とも交流しはじめた

 

 「耳の聞こえないものが(聞こえる高校生の集いに)行ったところで何になるか」と、先生方に反対されながらも京都の「平和憲法記念高校生春季討論集会」や「高校生部落問題研究集会」などに参加し、聞こえる高校生の方とも交流しはじめたのは、その頃でした。

 

 ろう学校生徒会主催の「学習について」の校内討論会や高校生との交流は、かつてのみじめでくさったような私の目をさましてくれました。

 

 洋服屋になろうとろう学校に入った私の目を、広く、ろうあ者の暮らしの現実と社会に向けさせてくれたのです。

 

ろう学校の教師が誇りを持てる
 そうでないと私たちの力はつかない

 

 新聞も本もろくに読めず、高等部を卒業しても、大学進学などとても考えられない。

 

 社会の片すみで、ひっそり辛抱してくらしていかねばならない現実、をどうかえてゆくか。

 

 そのために先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てる。

 

 そんなろう学校にしてゆかなければ、私たちの力はつかない、と考えるようになって行きました。

 

 

耳がおかしいと思ってから 生きていることすら苦痛に

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手話を知らない人も

                    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 さて、私(注 大矢さん 当時京都府ろうあ協会役員)が生まれ育ったのは、牛がのろのろとうんこをしながら、その後に追いついたオンボロバスが、これも道の狭さに追いこせず、とうとうエンコしてしまう。そんなのどかな田舎でした。

 

 よく遊びました。

 

 鬼ごっこ、かくれんぼ、メンコにビー玉、石けりにカンけり、チャンバラごっこに探検ごっこ……。近所の子供たちにかこまれて楽しかったあの遠い日々が、今でもかすかに思い出されます。

 

先生も友だちも
 そして私自身耳がおかしい

 

 ところが小学3年生の終わり頃、先生が言ったのと違うページを読んでは皆に笑われる。

 

 あてられもしないのに立ちあがる。

 

またドッーと友達が笑う。

 

先生も友だちも、そして私自身耳がおかしいと思い、母に連れられて病院へ行くことに

なります。

 

一歩一歩地獄の奈落に
 つき落とされてゆく日々

 

 医者は

 

扁桃腺のところを切れば、もとのようによく聞こえますよ」

 

と言ったそうです。

 

 近代的な手術室もない普通の外来診察室の椅子に手足をしばられ目かくしされた格好は、電気椅子にすわらされた心地でした。

 

 それから、のどに赤チンを一杯つけてのどをしびれさせての手術。

 

 1時間程も続いたでしょうか、ひたすら耐えて、1日入院して帰宅。

 

 けれど、やはり先生の話も友達の話も、はっきりききわけられず、それどころか日に日に聞きにくくなる一方でした。

 

 それは、かつて悪ガキどもにかこまれて得意の絶頂になって遊びまわっていた私が一歩一歩地獄の奈落につき落とされてゆく日々でもありました。

 

 何が地獄だったでしょうか。

 

学校は君一人のために
    あるのではありません
少しは静かにしていなさい


 テストの答案が10点、20点でつき返されてくる事。

 

そんな事は先生の授業が聞こえないからとひらき直ることで気持をごまかすことができます。

 

かつて遊びまわった友達と話し一つ出来なくなった事。

 

これも一人本を読むことで、どうにか心なぐさめられます。

 

しかし、登校途中の私の役目。

 

 それはカバン持ち。

 

 学校につけばカバンの中の点検。検便の日、マッチ箱をぶらさげて行くのが私の役目。
 
 こういう自分の姿ほど、つらかったことはありません。

 

 先生からも

 

 「キョロキョロガサガサやめなさい、君は聞こえないから先生の話がわからないのは、わかっている。しかし学校は君一人のためにあるのではありません、少しは静かにしていなさい」

 

と言われるにおよんで、私は生きていることすら苦痛でなりませんでした。

 

 障害児教育とか、障害者問題とか、そんな言語も私の住んでいるところでは交されることがありません。

 

 

 

4年もの歳月を盲ろう分校作りにかけずりまわったろうあ協会先輩の深層

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手話を知らない人も

      手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 4年もの歳月を分校作りにかけずりまわった先輩の心の底には、

 

「ろうあ者も人間だ。勉強しなければならないのだ。そして、このふるさとで暮らしてゆけるようにしなければならないのだ。聞こえる人と共に暮らしてゆける地域にしなければならないのだ」

 

との、すばらしい地域論が脈々と流れていたに違いありません。

 

 分校づくりは、もう一つ、民主的な地域づくりという意味を持っていたのです。

 

共に育ち合う地域づくり
 崇高な願いへの共鳴
 
500名もの署名。

 

 それはとりもなおさず障害児者と共に生きる。

 

 共に育ち合う地域づくりと崇高な願いへの共鳴に他ならないと思うのです。

 

 この精神は、同時に1949(昭和24)年以来の与謝の海養護学校づくりの10年にわたる運動にも生かされ、さらに今、分校中学部を守り発展させようという運動に引きつがれているのです。

 

聞こえる人 と共に暮らしてゆける地域にしなければ と崇高な願いを籠めて

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手話を知らない人も

                 手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 「京都北部にろう学校を」と遠く離れた一軒一軒の門口に立って署名用紙を見せる間もなく聞こえないとわかっただ塩をふりかけられ、追っぱらわれるということも再三。

 

 それにもくじけず、ついに地域の民主主義の結晶としての500人もの署名をあつめ、さらに、当時の京都府議会、舞鶴市議会にも働きかけるなど、精力的に活動を展開したのです。

 

 あわせて、自ら私塾「舞鶴ろうあ塾」を開設するなど、足かけ4年の寝食を忘れた闘いは、ついに1952(昭和27)年6月、自らの力で自らの学び舎を生み出したのでした。

 

この町に学校を作らなければろうあ者は
   人間として暮らしていくことは出来ない

 

 分校の誕生。

 

 それは直接的には、北部における障害児の教育権、学校権の保障を意味します。

 

 しかし、この運動にかけずりまわった先輩は、しみじみと語っています。

 

「私は、勉強するために、生まれ育ったふるさとから出なければならなかった。30歳になって、舞鶴に帰ってきた。

 舞丹ろうあ協会を作ろうと活動をはじめた。

 そしたら150人もの聞こえない子供や、私と同じくらいの聞こえない人々が勉強もできないまま放ったらかしにされている。

 この町に学校を作らなければ、ろうあ者は、この舞鶴で、丹後で人間として暮らして
いくことは出来ない」

 

せめてろう学校の義務教育は地元でとのねがいを打ち切る非情

f:id:sakukorox:20180603203625j:plain手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 「事実を知りたい、真実を知りたい、人間として。ろうあ、という障害があっても、みんなの力の中で育ち合ってゆくためには、学ばなければ、ということを知り「われわれは学ばなければならない」というろうあ者の必死の運動と請願運動が戦後すぐ行われた。

 

校舎改築とひきかえに
聾分校中学部の廃止生徒たちは

100km~200㎞離れた本校へ

 

 その運動が実って1952(昭和27)年京都府立盲学校舞鶴分校と京都府聾学校舞鶴分校が同一敷地内につくられるようになる。

 

 その喜びを込めて北部のろうあ協会の人々は。舞鶴盲聾分校と呼んだ。

 

 この時のろうあ者の喜びは計り知れないもので、もちろん、盲人の人々も同様であった。

 

 ところが、1981(昭和56)年を前後して、この京都府舞鶴盲聾分校の廃止の動きが強まる。

 

  その第一波が、京都府聾学校舞鶴分校の中学部の廃止であった。

 

 この時、分校の保護者や教職員はもちろん、ろうあ協会も大反対の運動を展開した。

 

 京都府舞鶴盲聾分校は1952(昭和27)年の設立から「風がふけば窓が落ち、雨漏りのする危険極まりのない老朽校舎」になってしまっていた。

 

 父母をはじめ多くの先生方で「分校校舎改築推進委員会」が結成され、新校舎の建設にむけ陳情や請願などさまざまな運動が15年以上もねばり強くすすめられ、その間校舎の全面改築の請願が京都府議会で承認されてきた。

 

 分校校舎改築推進委員会の結成、その運動は障害児教育の一層の充実をねがう、京都北部をはじめ、広範な京都府民の共感を呼んだ結果だった。

 

 京都府教育委員会は、校舎改築とひきかえに聾分校中学部の廃止(100km~200㎞離れた本校への統合)を打ちだし、父母・先生たち、地域の多くの人々たちや地元府会議員の強い反対を押しぎって中学部廃止決定を強行した。

 

せめて義務教育までは地元で

 

 「せめて義務教育までは地元で」「障害児を地域の主人公として、中学部存続をの運動は絶えることなく長く続けられた。

 

 その頃、京都府ろうあ協会の大矢さんが集会に集まった多くの人々にこころから訴えた記録が残っている。

 

 長くなるがその一部を分割して掲載する。