手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
私にとって、何よりもやりきれなかったのは、そんな奴隷みたいな姿に何一つ抗議できず、逃げるしかなかった自分の姿そのものでした。
石を雨アラレのように投げつけられても、それでも何一つ人間的な叫びをあげられない自分の姿でした。
いじけた つまらない人間だった
中学卒業後は、人から笑われもせず、石も投げられない一人で働ける百姓が向いているとだけしか考えられない自分に対してでした。
何という、いじけた、つまらない人間だったでしょうか。
この私の姿こそ、小学3年から中学生にかけての私への教育の到達点ではなかったかと思うのです。
しかし地獄にも仏と言います。
聞こえる高校生の方とも交流しはじめた
「耳の聞こえないものが(聞こえる高校生の集いに)行ったところで何になるか」と、先生方に反対されながらも京都の「平和憲法記念高校生春季討論集会」や「高校生部落問題研究集会」などに参加し、聞こえる高校生の方とも交流しはじめたのは、その頃でした。
ろう学校生徒会主催の「学習について」の校内討論会や高校生との交流は、かつてのみじめでくさったような私の目をさましてくれました。
洋服屋になろうとろう学校に入った私の目を、広く、ろうあ者の暮らしの現実と社会に向けさせてくれたのです。
ろう学校の教師が誇りを持てる
そうでないと私たちの力はつかない
新聞も本もろくに読めず、高等部を卒業しても、大学進学などとても考えられない。
社会の片すみで、ひっそり辛抱してくらしていかねばならない現実、をどうかえてゆくか。
そのために先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てる。
そんなろう学校にしてゆかなければ、私たちの力はつかない、と考えるようになって行きました。