手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
電話の件で大矢さんとトラブルになった時に、手話で伝えないからなんだ、と思い込まれるのは不本意である。
聞こえる人が話している
すべてを手話でしている
あるろうあ協会の事務所なり、ろうあ者がいる職場では電話を受け取った聞こえる人が話しているすべてを手話でしている。
また手話ですべて表現しなければならない、とされている。
その理由は、聞こえる人だったら聞こえているのだから、ろうあ者も同じように「聞こえる」ように電話の会話をすべて手話でするべきだといわれて一日中手話をしている。
お互いの理解は深まらない
理解しようとすることのあからさまな否定
そのことが、身体を痛めることだと分かっていても何ら改善しようとしない。
頸腕障害を引き起こす原因のひとつとして受話器を肩と首の間に挟んで「電話通訳」することが明らかになっているにも関わらず、逆にその大変さを平気で自慢する人もいる。
ろうあ者の気持ちを知らなさすぎる、と言われての言い合い、言い争い、なんてするのはろうあ者のことを理解していないからだと言う人もいる。
こんなことでは、お互いの理解は深まらないし、理解しようということすら否定していることになるのである。
話し合いから産まれる理解
と人間みな平等
「聞く」とことに主として依存している場合と「見る」ことに主として依存している場合とでその差が出てくる、とすでに述べたが、その差を埋めるのは話し合いである。
それすらしないことは、人間みな平等ということを認めていないのではないかとすら思える。
こころなごむ時間をたくさん作ってくれた
ろうあ者の人々の思いやり
1969年。遙か遠い昔かも知れないが、何でも手話でという私に対して京都ろうあセンターの職員や訪れたろうあ者は、そんなことをしたら疲れるからやめ、としばしば言われた。
仕事中でも「あんたわ 休む暇ないほと働いているから もう帰り」「何かおいしいものを食べに行こう」とこころなごむ時間をたくさん作ってくれたろうあ者の人々を思い出す。
なんでも手話をしなければいけないと!!といい続ける人の話を聞く度にあの頃の人々の優しさが胸を締め付ける。