手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動
全国手話通訳問題研究会結成
初代全国手話通訳問題研究会事務局長
谷勇男氏へインタビュー
退いていく優秀な手話通訳者
-ー 全国手話通訳問題研究会が出来たとき参加していた手話通訳者が潰れる、離れる、人間関係のもつれで離れる、ということが非常に多かったんですか。
とても多かった。
優秀な手話通訳者は退いていく現状が。
手話サークルみみずく会
に参加していた経過
-ー 谷勇男さんは全国手話通訳問題研究会の初代事務局長として全国手話通訳問題研究会をつくる中心にいたわけですが、もともと手話サークルみみずく会に参加していた経過もあったわけですね。
19歳頃、家がとても貧しかったから高等学校の定時制にいって昼働いていた。その時、同じ学校の日赤病院の准看護婦だった中村さんが、高等学校の資格を取って正看護婦になろうと勉強していた。
どうも理不尽だ
コミュニケーションの問題では
その日赤病院にろう学校の西田先生が入院しておられた。西田先生は京都府立医科大学に入学して医者になろうとしていた、しかし、耳が悪くなってきた。そのため入退院を繰り返していたが、西田先生と担当医と絶えず喧嘩する。
准看護婦だった中村さんがその様子を見ていて、どうも理不尽だ、と思っていた。
やはり、コミュニケーションの問題では、ということになって。私は高校で中村さんとは友人だった。手話を勉強するのはどうしたらいいの、ということになった。
糺の森 京都府立身体障害者福祉センター
出会いと学びと手話サークル
そこで京都市左京区にある糺の森の京都府立身体障害者福祉センターに行った。そこに行って手話や手話通訳のベテランの向野さんと出会った。
そして、中西先生を紹介してもらった。
京都大学北門前の進々堂の喫茶店ではじめてろうあ者と出会うことになった。そこから定時制の仲間を中心に会員を募って「みみずく会」が出来た。
「みみづく会」の名称は
論議の末に産まれた
手話を知る 学ぶだけではダメだと
手話サークル「みみづく会」は、今はよく知られているけれど、当時はそうではなかった。
定時制の仲間が中心になってつくったけれど、他の人もいた。ろうあ者が身内にいる人などなどが手話を学ぼうと、京都府立身体障害者福祉センターで集まった。
みみづく会の由来・名前は、
当初は、「みみづく」でしたが、ふくろう科のミミズクを調べるなかでふくろう科のうち羽角のある種の総称がミミズクだと知りました。古名は「ツク」または「ズク」で、角毛の意です。学問の神様、知恵の象徴、森の賢者として、今じゃトトロのモデルとして有名になってしまいました。
不苦労、福来朗にも由来しています。
会の目的論議のなかで、奉仕活動か学習、研究会かの論議があり、日常活動を通じて社会的差別や偏見をなくしていく原動力になりたいという強い意識が単なる奉仕活動という枠組みを超える事ができたのです。
差別や偏見のない社会を築くという手話を学びろうあ者と連帯して暮らしを共にする関係性が重視されました。
ろうあ者個人や集団と喧嘩になったり、揉めたりすることも多々ありましたが、其れが当たり前の人間の関係性であり共に生きる社会の姿だと言えます。
マイノリティー集団が権利侵害を回復し、その成果を自らの集団が勝ち取ったものとして誇る事は当然のことですが、
これを絶対的なものとして、
その成果を勝ち取るためにそれを支え協力、協同した集団や関係者の尽力や足跡、歴史を
その集団のご都合主義で捻じ曲げたり、抹殺されたりすることは、真の民主主義と権利擁護の視点からは、あってはならない事だと今も考えています。
かなり意見交換・激論して、お互いの考えを付き合わせた結果、産まれた名称なんです。みみづく会は。
みんなとても真剣でした。何ごとも。
京都府立身体障害者福祉センター発行
手話テキストが出来たのは
ろうあ者の山本さんが絵を描いて、向野さんが編集し、ろうあ者の川島さんが印刷課の指導員であったので京都府立身体障害者福祉センターの授産施設の印刷機で凸版印刷してもらった。
京都府立身体障害者福祉センター発行の手話テキストも、みみづく会がつくられてからつくってもらったりしました。
ろうあ者全国大会京都 ガイドさんに
手話を知ってもらおうと
手話テキストをつくる
ろうあ者全国大会が京都であって、ガイドさんに手話を教えるのに手話テキストがなかった。
京都大会の前に松山大会で使われたガイドさん用の手話テキストを使うことになった。
絵が描かれていない文章だったので、さっぱり分からない、ということになった。
そこで、京都府立身体障害者福祉センター発行の手話テキストを使って手話を覚えてもらおうということになった。絵は平面に書かれていたので限界はあった。
私が、京都市の専任手話通訳になったとき、たまたまとても手話を絵で表すことが上手な人と出会うことになる。
そこから手話テキストは、イラストをとり入れるなど大きく変わる。