手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動
全国手話通訳問題研究会結成
初代全国手話通訳問題研究会事務局長
谷勇男氏へインタビュー
障害福祉関係の上司が賛成してくれて
-ー 1971(昭和46)年5月につくられた京都市規則。認定手話通訳制度をつくることは京都市ですんなり受け入れられたのですか。
いや、いろいろいろいろありました。
京都市規則をつくる担当課では、このような規則は作った前例がない!!と言い続けた。
前例がないならつくればいい、と言った。でも障害福祉関係の上司が賛成してくれた。
認定手話通訳制度をつくることは、自分たちがその時代にそのような制度をつくったという証でも誇りでもある。
やったらいい、やったらいいと応援してくれ、規則を作る担当課と課長などのやりとりしてくれて、ようやく1971(昭和46)年5月13日に京都市手話通訳認定規則と言われた名付けられてた京都市規則第16号をが公布された。
京都市認定手話通訳者は
合議制ですすめられた
-ー 1971年5月につくられた京都市認定手話通訳制度をつくられてからは、特に問題は生じなかったんですか。すんなり、と。
特に問題は出てこなかったですね。研修会したり、京都市認定手話通訳者の合議制ですすめていったので。
一定の単位をつくって受講した人を最初は京都市認定手話通訳者が合議制で最初は互選でした。
-ー そういう京都市認定手話通訳制度が次第に本来の趣旨とかけ離れたようですが。
まぁ‥‥‥ろうあ協会の動きもあったし、手話サークルみみづく会のなかで当時京都市認定手話通訳者は七人だったので、「七人の侍」とか「雲の上の人」と言ったり噂されることもあったが私たちはそのようには思わなかった。まったく(笑う)。
京都市認定手話通訳制度をつくった以上は、設置事業と派遣事業をしなければと考えて二つの事業をつくった。
それが、厚生省の社会活動メニューに入って、全国に広がった。
ところが、国はあくまでも手話奉仕員養成事業。
全国手話通訳問題研究会は最初から
実践的にも理論的にも
高めて行くことが潰され
-ー そういうことを受けて全国手話通訳問題研究会が、実践的にも理論的にも高次化していくということになったんですかねぇ。
全国手話通訳問題研究会が、実践的にも理論的にも高まっていったとは、まったく思えませんね。
各地方から、全国手話通訳問題研究会を実践的にも理論的にも高めて行くことが潰されていった、と思えてなりませんねぇ。
各地のろうあ協会と手話通訳者、手話通訳者集団がまだまだ「未熟」なところがあった。
京都は社会的にも確立した手話通訳者たちが、中心になっていました。
いろいろ課題はあっても京都は手話通訳者として各市町に配置され活躍していたでしょ。そういう人たちが手話通訳の原則や組織原則の常識から外れるということはなかった。
他の地域には、そういうことがなかったので手話通訳者が手話通訳から離れたり、潰れていく。
手話通訳者が「埋没」してしまう状況があった。
個人的問題や人間関係で。手話通訳者としても優れたことをしていても「潰され」「やっていけない」となって。