手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。このブログは多数のみなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられています。過去と現在、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

非常に数多くの障害者が 戦争その他の形態の暴力の犠牲者である  ろうあ者の戦争体験を掘り起こそう ー風化の現実にこぶしの呼びをー

communion of mind with mind
2000年~2001年元手話通訳問題研究編集長へのinterview一部公開  個人名はイニシャル表記、了解などなどいただいています。また、手話通訳問題研究誌から一部引用させていただいています。

 

Questioner
  多くの方々の知恵をあっめて集まって手話通訳を集団研究する、と言われていましたが、手話通訳問題研究を振り返って読んでみると

「ふお〜らむらんにあなたの意見を!この“らん"は、みなさんの問題提起、 批判、 反論をのせ、 自由な討論をおこなうページです。 どしどし投稿を・・・・・・。 原稿 400字×7枚限度に編集局までお送り下さい。」という「ふお〜らむらん」もそのひとつだったんですね。

 

元手話通訳問題研究編集長
 そうなんです。


 この「ふお〜らむらん」には全国手話通訳問題研究会会員でない方からもご意見がよせられました。
 また手話通訳問題研究誌絵の感想や意見は、すべて「読書欄」に掲載しました。そのまま手書きの文を。
 当時は、受取人ハガキを入れて製作できない、こちらがハガキ代を負担が出来ないにもかかわらず、みなさんに投函していただき感謝の気持ちでいっぱいでした。
 何度もご意見を読ませていただきました。

 

現役新聞記者から学び 記録を残す意味を深く噛みしめる

 

Questioner
 「ふお〜らむらん」には、沢田猛さんが投稿されていますが、この方は、全国手話通訳問題研究会の会員でなかったんですか。

 

元手話通訳問題研究編集長
 そうです。


 毎日新聞の記者をされている方で、毎日新聞静岡支局で記者をされているときに出会いました。
 それから数え切れないほどのご意見を聞かせてもらいました。


 文の書き方、校正等数え切れないほど‥‥‥

 

  まず、「ふお〜らむらん」に投稿された文章を紹介します。
 ( ※ 文章は字数の関係で改行はされていません。また小見出しもありませんが、紹介のため改行・小見出し・三分割させていただきました。ご了解ください。※   )

 

非常に数多くの障害者が 戦争その他の形態の暴力の犠牲者である  ー国際障害者年の行動計画

 

(「ふお〜らむらん」その1)

 

ろうあ者の戦争体験を掘り起こそう
    ー風化の現実にこぶしの呼びをー          
                                       沢田 猛

 

 中国大陸や朝鮮半島への日本軍部の 「侵略」を「進出」と書き換え、 歴史的事実を隠蔽しようとした文部省の教科書検定は、中国、韓国をはじめとするアジア諸国から一斉に反発を招き、戦争体験の風化が叫ばれて久しいことしの 「8・15」 にある異変を引き起こした。 

 

 加えてベストセラーになった 「悪魔の飽食」(森村誠一著)が戦争の持つ非人間性をあますところなく描き出し、 教科書検定の「侵略」論争と微妙に絡み合って、ことしの「8・15」を特徴づけた。
 しかし、あの「8・15」はもう37年前の遠い夏の日の出来事だ。
  戦争体験者の減少とこれに高齢化の拍車がかかり、 その風化の激しさは否めない。だが次代を担う青年たちには、戦争の持つ残酷極まりない非人間性を語り継いでいかねばならない。 


  ・・・
 生きる者の義務だからである。

 

  健常者が障害者となり

障害者が 「非国民」扱いを受ける戦争の持つ立体構造

 

 「非常に数多くの障害者が、 戦争その他の形態の暴力の犠牲者である」 ー国際障害者年の行動計画は、 その中でこううたっている。 
 たしかに戦争は新たな障害者を生み出すのだ。 だが、障害者の戦争体験の継承と記録が、これまでどれほど行なわれてきただろうか。
 ある障害を持つゆえに戦時下にはその人間性を根こそぎ否定されつづけた精神、 身体障害者。ろうあの人たちの中に 「非国民」というレッテルを貼られ、どれほど苦しんだ人たちがいただろうか。

 障害者の戦争体験の継承と記録ー。 ろうあの人たちの体験の継承と記録一。 健常者が障害者となり、 障害者が 「非国民」扱いを受ける戦争の持つ立体構造。健常者だけでなく、 障害者からの戦争体験も同様に継承、 記録し、 次代に伝えていかねばならないのではないか。 ろうあの人たちの戦争体験もその高齢化によって記憶はおぼろげになりつつある。

 

  埋もれていく戦争体験の貴重な “声” を発掘し

  平和の意味を聞こうではないか

 

  埋もれていく戦争体験の貴重な “声” を発掘し、 平和の意味を聞こうではないか。 その "声" はまた健常者、 健聴者本位に進められてきた平和への取り組みに対するある警鐘を含んでいるかもしれない。

 

 私事にわたって恐縮だが、 私の母の弟は学徒兵としてフィリピンへ 「出征」 した。 フィリピンで二年間の軍隊経験のあと、 捕虜となった。復員、 復学して就職したが、 戦争中の過労がたたって27歳で病死した。

 

 その叔父は戦後の民主化運動の中で新生日本の将来に夢を託し労働運動に参加したが、 病には勝てなかった。

 

 その亡き兄の遺志を受け継ごうとした弟、私にとってのもうひとりの叔父はその後、 反戦平和運動に走った。 その叔父を待ち受けていたのは、世にいう、 メーデー事件だった。
 メーデー事件とは 1952年(昭和27年) のメーデーで、 皇居前広場の使用を禁止した政府と対立し、広場に行進したデモ隊に対し、 武装警官がピストルやガス弾を発射して大がかりな弾圧を加えた事件である。
 その後、同事件は騒擾事件として刑事裁判となった。被告となった叔父は当時、 東宝の映画俳優であったが職を追われ、 劇団民芸前進座などを転々としたが、 公判中、 生活難も手伝って病死した。 

 32歳であった。

 

 同事件の無罪判決が確定したとき、 叔父はすでにこの世になかった。 

 叔父の訃報に接したとき、 私はまだ小学3年生。カゼをひいて学校を休んで寝ていた私は、叔父の訃報を受けて、 私の寝床のわきで電報を手にしたまま泣き崩れた母をいまでも強烈に覚えている。

 

 二人の叔父はそれなりに戦争体験を将来に生かそうとしていた。 風化を許さず、 という信念がみなぎっていたようだ。 母からは二人の亡き弟のことを繰り返し聞かされた。

  叔父たちの母、私にとっての祖母は息子たちのことを悔やんでも悔やみきれない思いで語って聞かせてくれた。

 

 その祖母も死んだ。


                                                           (つづく)