手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

制定された身体障害者福祉法に京都のろうあ協会基本問題を指摘 京都ろうあセンター はなぜつくられたのか ⑨

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手話を知らない人も

                  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

京都のろうあ協会原基本問題を指摘
   制定された身体障害者福祉法にたいして

 

  制定された身体障害者福祉法にたいして京都のろうあ協会は、

 

1,この法律の目的は「身体障害者の自立更生」を援護するためのものであって、すべての障害者の職業や生活を保障するものではない事

 

2,予算措置が貧弱であり福祉行政が窓口事務に終止している事

 

3,盲人・ろうあ者・肢体障害障害者の障害特殊性が考慮されず、それぞれの福祉行政が一貫していない事

 

などをあげそれらを改めさせながら戦後の民主主義の波の中でろうあ協会は、多くの人々と手を携えていく。

 

それぞれの障害を強調し
  障害者の中での対立と離反を許さない

 

 盲人・ろうあ者・肢体障害障害者の障害特殊性が考慮されず、というのはそれぞれの障害を一括りにしないで、それぞれの障害を十分配慮した事を前提とすべきだという事であり、それぞれの障害を強調し、障害者の中での対立と離反を許さないという意味でもある。

 

 京都のろうあ協会は、多方面にわたる活躍をするが、以下ろうあセンター設立までの長い歴史的経緯を考えて行きたい。

 

貧困にあえぐ中でもあえてなけなしのお金を   京都ろうあセンター はなぜつくられたのか ⑧

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手話を知らない人も

               手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介

 

  1968年から京都ろうあセンター設立がすすめられたが、そのほとんどはろうあ協会とその協力者の寄付でまかなわれていた。

 

  貧困にあえぐ中でもあえて、自分のこととしてではなく他の多くのろうあ者の人々のためにと身を切る思いでなけなしのお金を京都ろうあセンターの設立と維持のため寄付をした多くの人々。

 

 またそれを理解して協力を惜しまなかった人々で、京都ろうあセンターは設立され、維持されてきた。

 

戦前戦後もろうあ者や障害者のねがいを
率先して対応する事はなかった国や行政

 

 国や行政は、戦前戦後もろうあ者や障害者のねがいを率先して受けとめ対応する事はなかった。ろう教育も京都が発祥の地だとされている。

 

 その歴史を観ると、国や行政がろう教育(盲唖院)に積極的に関与し、援助したことはない。

 

 むしろ、民間の人々の努力では限界があるとして国や行政に働きかけ、陳情し、国や行政が陳情に対して「恩恵」的な対応をしたにすぎない。

 

忘れてはならないのは
   自分のことではなく

      多くのろうあ者の人々のためにと

 

 忘れてはならないのは、自分のこととしてではなく他の多くのろうあ者の人々のためにと身を切る思いのろうあ者とそれを理解して協力を惜しまなかった人々取り組みである。

 

 このことがなかったら国や行政何もしなかった事は間違いがない。

 

 それは、現代でもその姿は変わらない。

 

陳状、陳情ではなく、国や行政が果たすべき役割を果たしてそれに対して関係する人々

が要求したり、改変させる事が、福祉の分野では特に大切である。だが、今だ恩恵主義が横行している。

 

制定された身体障害者福祉法
京都のろうあ協会はいくつかの問題を指摘

 

  戦後憲法下で、1950年12月26日に身体障害者福祉法が制定された。この身体障害者福祉法は戦前の圧政からの解放として日本の近代的な福祉行政への第一歩として障害者はもちろん多くの国民から大きな期待が持たれていた。

 

 ろうあ者もろうあ者団体の活動・ろうあ協会の活動が一定援助されその期待は大きく膨らんだ。

 

 しかし、当初から身体障害者福祉法にたいして京都のろうあ協会はいくつかの問題を指摘していた。

 

立命館大学生存学研究センター の根拠なき京都市設立する誤り 京都ろうあセンター はなぜつくられたのか ⑦

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  立命館大学生存学研究センターは、ネット上でいくつかの文章を公表している。だが、以下の文章は調査・研究として公表するだけの基礎研究がなされたとは思えない多くの問題がある。京都ろうあセンターの部分だけ抽出して掲載する。

 

 事実関係を明らかにしておくことは、多くの人々への誤解と今後の研究への警鐘だけでなく京都ろうあセンターを創りあげてきた人々への歴史的評価に繋がると考えるからである。

 

 立命館大学生存学研究センター
報告書の研究なき報告と社会的責任

 

立命館大学生存学研究センター報告書 [16] 第7章 手話通訳事業の現状と課題 ――3つの自治体調査から 坂本徳仁 佐藤浩子 渡邉あい子

 では、1.はじめに  の項で
 日本の手話通訳事業は、手話を主要なコミュニケーション手段としている聴覚障害者が日常生活に支障をきたさぬように、1970年代以降、当事者運動の要求に沿う形で公的に整備されてきた。

 

 としながら、さまざまな解釈を行っているが、そのことを立証する根拠は多くの疑問があるが、とくに京都ろうあセンターのことで根拠も脈絡もなく次のように述べている。


 本研究は2008〜2009年度に行なった三つの自治体(京都市、中野区、金沢市)の聞き取り調査をもとに、手話通訳事業の現状と課題を考察するものである。ただし、調査対象とした三つの自治体は手話通訳事業に対する独自の取り組みや歴史があり(2)、

 

(2)の[注]として 「(2)具体的には、京都市は1969年に全国に先駆けて京都ろうあセンターを設立し、手話通訳の養成や派遣、聴覚障害者向けの生活相談といった事業を行なってきた。金沢市は常勤正規職員の手話通訳者1名を市役所に雇用している全国的にも珍しい自治体であり、中野区は1973年に都内で初めて自治体主催の手話講習会を開始している。」

 

と述べているがそのことの文献・資料などは何ら示されていない。

 

京都府京都市

ろうあ者福祉や聴覚障害者福祉に

 取組まなかったためろうあ協会が中心に

 

 だが、京都市は1969年に全国に先駆けて京都ろうあセンターを設立し、手話通訳の養成や派遣、聴覚障害者向けの生活相談といった事業を行なってきた、とする根拠は何もない。

 

 そればかりか、京都府京都市がろうあ者福祉や聴覚障害者福祉に取り組まなかったためろうあ協会が中心になって京都ろうあセンターを創りあげてきたものであり、立命館大学生存学研究センター報告はこれらの事実が多くの資料や研究があるにも関わらず何ら調査もしないで報告している。

 

 このことは、解釈や考えの違いではなく、研究の基本を踏まえて事実と根拠を持って公表すべき大学の社会的使命以前の問題だろう。

 

 初めにの部分で書かれている、1970年代以降、当事者運動の要求に沿う形で公的に整備されてきた、当事者運動の要求に沿う形で公的に整備という研究姿勢がまったく見られない。

 

 立命館大学生存学研究センターは充分な検討をした上で公表すべきであろう。

 

大学の研究・実証なき報告
  学術的・社会的に

   重大責任があるとの自覚を

 

 このことをあえて述べるのは、学術研究や大学の名や各種さまざまな人々が、調査はもちろん文献も調べないで手話や手話通訳のことを「研究や解釈する」より主観的・思いつきの文やはなしが横行し、それがどんどんと孫引きされて、事実であると断定されることがまかり通ってしまう今日の状況があるからである。

 

 京都市は1969年に全国に先駆けて京都ろうあセンターを設立したのではなく、京都ろうあ協会が京都ろうあセンターを創ったのである。

 

 立命館大学生存学研究センターは、事実でないこと、誤った事、を広めることを自浄してほしいものである。

 

 以下その経過を紹介したい。

 

 

ろうあ者の読み書き出来るようになりたいと「筆談教室」 京都ろうあセンター はなぜつくられたのか ⑥

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

ろうあ者の多くの人々が

「読み書き出来る」

ようになりたいとねがっていた

 

 「あの人はかしこいろうあ者」と言うろうあ者の意味は、「内言語を形成している人か、どうか、」「読み書き出来るかどうか、」で「あの人はかしこいろうあ者」と言っていることがわかってくる。

 

 それは、ろうあ者の多くの人々が、「読み書き出来る」ようになりたいとねがっていたからである。それは心からの要求だった。

 

ろうあ者が文字を覚えて
自分の気持ちを表現する眼差しは真剣

 

 そのためしばしば、「筆談教室」が開かれた。

 

 当時、ろうあ者の文章には「てにをは」がないと言われてきた。書けても単語の羅列だと言われた。

 

  でも手話を学ぶと、「てにをは」がなくても言いたいことの意味はよく解るものである。

 

 そこで、言いたいことの意味を手話で確認して、それなら書き文字で表すとこのようになると文章の例を示した。

 

 その積み重ねを幾度と繰り返したが、いつもろうあ者が文字を覚え、自分の気持ちを表現する眼差しは真剣だった。

 

聞こえる人々文字も充分書けない
 その人が手話を覚えると

 

 最近、一部の聞こえる人々の文章?を見ていると「てにをは」どころか、文字も充分書けない人が多いので驚く。

 

 単語の羅列。

 

 それも充分がわかったつもりで書いているのだから、「イミフー」(意味不明)をめいめいの「主観」で思い込むので、しばしばトラブルになっている。

 

 また、そういう人々が手話を覚えるので混乱する。

 

「声を出さない」ことが手話ではない

 

 また日本手話と言って「声を出さない」ことが、ろうあ者のアイデンティティーとするろうあ者の人がいるが、その人の表情や喉の付近を見ていると明らかに「声が出るのに声を出さないで」いることが解る。

 

 そういう人に限って筆談を否定するが、内実は文字から情報を得ている場合がある。

 

 ろうあ者の多くの人々の要求が、「読み書き出来る」ようになりたいとねがっていた時代を想起すると、空しさを感じる。

 

 

手話通訳が違う手話をしたんだろう 本人がうなづいているのに 京都ろうあセンター はなぜつくられたのか ⑤

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手話を知らない人も

                  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 ろうあ者の人が、「うなずく」ことは、「理解した」「了解」「解った」ということでないという教えは、その通りだった。

 

 だが、しばしばトラブルを引き起こした。

 

つい、うなずいてしまう

 手話通訳をしていると

 

「本人がうなづいているのに、そのあと違うことを言ってくるとは。手話通訳の、あんたが違う手話をしたんだろう」

「わかったといっているのに、なにをいまさらなにを言うのか」

 

と聞こえる人が怒鳴り、話を撥ね付けられることがあまりにも多すぎた。

 

 それを、見ていたろうあ者から後で

 

「ごめん、ごめん、迷惑かけて」
「つい、うなずいてしまう。」
「手話通訳がわかるという事なんだけれど」

 

と謝られる。

 

「かまへん、かまへん(京都の手話表現で)しんぱいせんと、言いたいことは言わんとなぁ、そのため手話通訳しているから」

 

と何度も言ったけれどろうあ者の人々は、恐縮していた。

 

 なんでも「はい、はい、」と言うように「躾け」られていた結果だろうか。

 

 手話通訳になれてきたろうあ者の人々は、次第にうなずくことはなくなって行った。

 

 このことは、ろうあ者の人々の暮らしには、大きな一歩だったのではないだろうか。

 

手話で伝えること出来なければなければ「身振り」「しぐさ」やジェスチャーなどあらゆる方法で 京都ろうあセンター はなぜつくられたのか ④

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

学ぶことで助け合うことは
 全く知らない人々に

 

 受験戦争とも言われた時代。一人でも多くの人を蹴落とし自分が這い上がる、這い上がらなければ生きていけないと教えられていた時代に、学習する、学ぶというのはとても苦痛なことだと思われていた。

 

  人を蹴落とすことは知っても、学ぶことで助け合うということは全くといって無かった。

 

 事実をまず書いておこう。

 

「あなたはろうあ者?」と
   手話通訳者に質問する訳

 

 京都ろうあセンターが出来た頃は、ろうあ者の方々の中に「ねたみ」「しっと」「悪口」などは、たくさんあった。

 

 それはどんな人にもあることだから当然のことだった。

 

 京都ろうあセンター館長の明石さん(当時)は、手話通訳するとき、ここでは指文字は絶対使ってはだめ、手話で伝えること出来なければなければ、「身振り」「しぐさ」やジェスチャーなどあらゆる方法で伝えるようにしなければ、と場所に応じて、参加者に応じて助言された。

 

 手話通訳が、終わると

 

「あなたはろうあ者?」
口話でよんで手話通訳しているの」
「聞こえるの」
「どっち?」

 

と手話通訳者に聞く。聞こえているから手話通訳をしているととは、とても思えなかったのである。

 

聞こえる人が

わけのわからないことを言っている
手話通訳者が自分なりに解釈して
 手話通訳することはろうあ者蔑視

 

 さらに京都ろうあセンター館長の明石さん(当時)は、

 

「ろうあ者の手話が解らないとき、それはどんなことと必ず聞いて、あいまいなな手話通訳をしないこと」
「ろうあ者が手話通訳を見てうなずくのは、分かった、理解した、ということではなく、手話通訳していることにうなずいている場合が多いから注意するように」
「聞こえる人がわけのわからないことを言っていることもある。それはそのまま手話通訳して、あとでろうあ者から、あれはどんなことを言っていたの?と聞かれたら、わからないことを言っていた、と答えればいい。」
「手話通訳者は、自分の思いを潜らせて手話通訳したり、自分なりに解釈して手話通訳したりしてはいけない。わからない話なら、わからない話として手話通訳する、これが、手話通訳の基本。わかないことを言っているのに手話通訳者が言っている人のことを自分なりに解釈して手話通訳することは、ろうあ者蔑視になる。」

 

とも言われた。

 

 

京都ろうあセンター はなぜつくられたのか③ すべての道はろうあ協会の「つどい」に

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手話を知らない人も

                  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 ろうあ者も「つどう」。

 

 ここにろうあ者の生活や要求や運動などあらゆる源泉があると知りつつあった。

 

今では考えられない苦労
  ろうあ者の方々がつどい

 

 その理論的根拠をもとめて学び続けて数十年後に一定の解明が出来た。

 このことは、今回は脇に置いておく。

 

 ろうあ者の方々がつどうのには、今では考えられない苦労があった。

 

 電話があっても使えない時代。

 

 ろうあ協会の人々は、手渡しでみんなが郵便配達員。

 

 一枚の「つどいの案内を渡す」のに何時間もかかることがあった。

 

 ほとんどが徒歩。

 

 仕事が終わって疲れ切った身体を闇の中に消える。

 

 ろうあ者同士会えれば話は弾むがが、会えなくても「一枚のつどいの案内」をポスに入れておく。

 

 この「一枚のつどいの案内」が動脈だった。

 

すべての道は
ろうあ協会の「つどい」に 

 

 すべての道は、ろうあ協会の「つどい」に通じていた。

 

 この数万、数十万回という手渡しの地道な積み重ねの繰り返しが、ろうあ協会の絆を次第に強く、信頼関係を強くしていった。

 

 この絆は、ろうあ協会の仲間はみな平等であるということだけでなく、ろうあ協会の会員でなくても、いやすべての人々が平等でしあわせに地下水路をはりめぐらせた。

 

 ここにろうあ協会の偉大さがあった。

 

 インクルージョンなどのカタカナ文字が溢れかえる現代より以前にすでに京都のろうあ協会は、それらをやり遂げていた。(以下、名称・表現は当時ののままで表記します。)