手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

京都ろうあセンター はなぜつくられたのか② 毎日が意見の相違と対立の連続

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
 
 1980年代になって全国各地をめぐる中で京都のろうあ者の方々は、他府県といくつかの点で少なくない違いがあることが解ってきた。

 

互いの協力だけでなく
 毎日が意見の相違と対立の連続

 

 1969年4月。京都ろうあセンターで専任手話通訳(ろうあ協会・ろうあ団体が手話通訳を採用することは、日本で初めて、と言えばそうなのだが。)が仕事をするようになって健聴者とろうあ者がろうあ者福祉の仕事をするようになった。

 

 それは、互いの協力だけでなく、毎日が意見の相違と対立の連続であった。

 

 ろうあ者が、日常生活で健聴者ばかりの職場で働いているのとまったく逆な立場に手話通訳者が置かれるようになっていた。

 

 手話通訳者は、24時間(宿直も含めて)健聴者とほとんど話すことがない生活。

 

 それまでの生活とまったく異なった生活になったのである。

 

途切れることなく
連続して話している自分に気づく

 

  1969年4月。

 京都ろうあセンター専任手話通訳として働いて、一ヶ月ぐらいたって手話通訳者は大阪で友人と話をした。

 

 すると

「おまえなあ、しゃべりぱなしで、俺‥‥‥何も言えないやないか。」

 

と言われ、自分が途切れることなく連続して話していることに気がついという。

 

 その手話通訳者は、思春期まで人前で話すことが大の苦手であった。

 

 大学時代に無理矢理多くの学生の前で話をさせられた時は、自分で何をいっているか解らず震えていた。

 

 それが、いつしか、何百人、何千人の前で話すことが出来るようになり、多くの人と論議して考えをまとめて、みんなの了承を得るようになっていた。

 

笑いが産まれ、笑いの渦が出来る
   強烈な不可思議さ

 

 だが、そんな自分がが「どこか」へ行ってしまっていたのである。

 

 そんな自分に気づいた時、

 

 ろうあ者の方々は、出会うと手話などを通じていつも笑顔で、笑っている。

 集まると、笑いが産まれ、笑いの渦が出来る。

 

 そのことに強烈な不可思議さを感じたとも言う。

 

 同じ哀しみの輪の中にみんなが居る

 

 大変な苦労をしているのにその苦労が笑いの中で話される。

 

 悲壮な話をしているのに本人もみんなも笑顔と笑いだけになる。

 

 同じ哀しみの輪の中にみんなが居る。

 

 この重要な意味を噛みしめながら手話通訳者は、具体的問題に取り組み。実践し。多くの人々からろうあ者の暮らしと手話を学んだ。

 

京都ろうあセンター はなぜつくられたのか

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手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 社団法人京都ろうあ協会(当時)の事業として京都ろうあセンターが発足したのは、1969年10月、京都府立盲学校の講堂で設立されたとされている。

 

 だが、それは「儀式」であってその以前から京都ろうあセンターの仕事はすでにはじめられていた。

 

 さらにもっと以前から、京都ろうあセンターの仕事は民生(福祉)行政の無策の中で行われていたとも言えることは意外に知られていない。

 

「自分だけの利益」を考えない
       純粋な動機と運動

 

  1969年以前、福祉行政(当時民生行政といわれてもいたが。)が無策であったがゆえんにろうあ者の人々は、意識的にも無意志にも多くの人々と智恵を出し合って自分たちが生き抜くすべをもとめ運動した。

 

 「自分たちだけがよかったらいい」

 「自分たちだけのために行政が~して欲しい」

 「自分だけの利益」

 

を考えない純粋な動機と運動があった。

 

 今考えても、このことは間違いがないし現在の状況を見ると反省すべき事が多々ある。

 

コミュニケーションである手話
自然淘汰され気持を伝えるものとして創造

 

 「自分たちだけがよかったらいい」「自分たちだけのために行政が~して欲しい」「自分だけ利益」を考えない純粋な動機と運動があったからこそ、巨大な絶壁に見えた多くの困難がひとつひとつ手渡しで打ち砕かれて行った。

 

 それとともにろうあ者同士を支え合うコミュニケーションである手話が、自然淘汰されお互いの気持ちを伝えるものとして創造されていた。

 

 これらの事を当時だから純粋な動機と運動が出来たのであって、現代のような複雑な福祉施策の中では行政の援助なしに事業は出来ない。

 

 事業拡張のためには、純粋な動機と運動だけでは事業はすすまないと言う聴覚障害福祉に携わる職員がいる。

 

細分化に細分化された行政の基幹
行政がなすべき仕事を回避するシステム

 

 だが、はたしてそうだろうか。

 

 複雑な福祉施策とされる中身を見ると、行政の援助を受けた以上に行政から縛りがかけられ、行政にものが言えず、援助を受ける対象の人々の中で対立が引き起こされてはいないだろうか。

 

 細分化に細分化された行政の基幹を看ると、援助を受ける対象の人々の自己負担の増大と行政が本来なすべき仕事を回避するシステムが巧みに形成されているように思える。

 

ろう学校教師に不信を持ちながらも なぜろう学校の教師であることに誇りをと言うのか

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 最近のはやりことばで、ろう学校はろうあ者のアイデンティティー【identity】と簡単に言い切る人が少なくない。

 

 しかし、この意味合いは本当にろうあ者とろう学校の関係を的確に表しているのか非常に疑問である。

 

人間性に疑問を持ちながらも

 

 大矢さんは、「君たちも辛抱強い人間になって、人からかわいがられるようにならねば」とろう学校の教師がさかんに

 

「ミシンや機械の一部になってロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば、やめてくれ、と追い出されてしまう……。」

 

と、生徒に教え込んだ非人間性に疑問を持ちながら、

 

「先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てるろう学校にしなければ」

 

と、生徒会を中心にろう教育改革の行動を起こす。

 

「間」を深く知れば
ろうあ者や聴覚障害者の

    ろう学校に対するねがいが 

 

 普通なら、教師たちの日常からろう学校を否定する。

 

 しかし、そうしないで、ろう学校の「教師が誇りを持てるように」しなければとろう学校高等部の時に思い至る。

 

 さらにろう学校を卒業したことを誇りに思っているとまで言い切る。

 

 私は、この「字間」にこそ、ろうあ者や聴覚障害者のろう学校に対するねがいや期待、ろう学校で得たものなど奥深い「特別」なものがある、と思う。

 

障害児者にとっての「学舎」は
他の人々以上の深い深い意味合いがある

 

 単なる母校、懐かしい思い出の学校でないのがろう学校であることは、被爆した長崎のろうあ者の証言に多々出てきた。

 

 信じられない行動をして、我が目で、すでに移転して軍需工場となった「ろう学校」を確かめに行っている。

 

 まさに、原爆が炸裂したその真下にあった「ろう学校」を。

 

 私は、このことを充分深め切れていないが、障害児者にとっての「学舎」は、他の人々以上の深い、深い意味合いがあると思える。

 

本当の意味の「特別」「支援」を

 

「特別」「支援」と言いながら 安易に障害児者の「学舎」を取り壊してはならない。

 

 今、教育現場で「特別」「支援」というなら、本当の意味の「特別」「支援」を考えないで、安易に障害児者の「学舎」を取り壊してはならないと思う。

 

ろう学校で学んでも普通校で学んでもみんな同じ仲間

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  手話を知らない人も

                 手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

ろう学校は

ひとつの学校がつぶされることは

            すべてつぶされるということ

 

 この京都府聾学校舞鶴分校の存続及び発展について(要望)意見をとりまとめたUS君に次のような質問をした。

 

「君は、小学校、中学校、高校、大学と普通学校で学んだのに、なぜ、ろう学校が聴覚障害児・者の精神的及び文化的な唯一つのよりどころ、と考えるの。」

 

「それは、ろう学校があったから普通校で学べたと言うこともあるけれど、ろう学校で学んでも、普通校で学んでもみんな同じ仲間だから。」

 

「全面、大賛成でろう学校卒業生も普通校卒業生も強い要望運動をしようということになった。」

 

「小さい学校だからつぶしてもいいと言うことは、大きな学校もつぶしてもいいと言うことになる。非常に危険な動きだという意見がたくさん出た。」

 

「聞こえる人には、多くの学校があるが、ろう学校はひとつ。ひとつの学校がつぶされるということは、すべてつぶされるということになる。」

 

「精神的及び文化的な唯一つのよりどころ、って言うのはろう学校は単に、勉強するだけの場ということではない、と言いたかった。みんなもそう言っていた。」

 

という返事だった。

 

 このことばに、深い意味合いがある、と思う。

 

聾学校・盲学校 の名称 支援学校 などと名称反対 変更する必要はない

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  社団法人京都府聴覚障害者協会と両丹聴覚障害者協会(注この頃、ろうあ協会の名称が変更されていた。)は連名で2010(平成22)年12月20日 京都府知事・京都府教育委員会委員長に次の申し入れを行った。

 

 盲聾分校の統廃合を教訓に、特別支援教育京都府教育委員会は、支援教育という名称を使っている。)の名の下に再び、舞鶴盲聾分校の統廃合の動きが強まったことを無抜いた反対運動が進んだ。

 

聾学校・盲学校を名称変更させない

     ろうあ者の生死をかけた運動

 

 2011年4月から京都府立の養護学校はすべて支援学校という名称に変更(法的に変更するぐむは課せられていない。他府県では、名称変更があれていないところもある。)されたが、聾学校・盲学校は名称変更されなかった。

 

 歴史的経過から考えてもろう学校の統合廃止は、ろうあ者の生死をかけた運動になると言っても過言ではないことは充分予測出来る。

 

                                  2010(平成22)年12月20日 

 

京都府聾学校舞鶴分校の存続及び発展について(要望)

 

                                          社団法人京都府聴覚障害者協会
                両丹聴覚障害者協会

 

 日頃は、私ども聴覚障害者の福祉の増進にご配慮をいただき厚く御礼申し上げます。


 つきましては、京都府聾学校舞鶴分校の現況を鑑み、下記の指摘及び方針に沿って要望をお受け止め頂きますようよろしくお願い申し上げます。

 

                                      記

 

1.京都府聾学校舞鶴分校を存続させること

 

 今、全国的に聾学校の統廃合の動きが起こっています。
 舞鶴分校は、京都北部の聴覚障害児・者の精神的及び文化的な唯一つのよりどころです。

 

 戦後まもない頃、京都北部では、今のように手話通訳者もおらず、ファックスもなく、ろうあ者の運転免許取得も認められない困難な時期でした。

 

 その当時に、ろうあ者自らが立ち上がり、京都府聾学校舞鶴分校の設立を求める陳情の取り組みを展開させてきました。

 

 その背景として、京都北部の聴覚障害児がお金の面などで京都市内の京都府聾学校に入学できない問題が挙げられます。

 

 未就学である聴覚障害者が多数いて辛く哀しい思いをされてきました。

 

 また、ごく少数の聴覚障害者が京都市内の京都府聾学校に入学していましたが、戦時中の寄宿舎の閉鎖、聾学校の閉鎖で充分な教育を受けられませんでした。

 

 とても辛く哀しく、悲惨な思い出と生活がありました。

 

 聴覚障害者の血のにじむ運動と府民のご理解を得て、昭和27年、京都府聾学校舞鶴分校が開校しました。

 

 その当時の言うに言えない喜びは、私たち社団法人京都府聴覚障害者協会・両丹聴覚障害者協会に伝承されています。

 

 また、多くの卒業生は、様々な地域で生活されており、当協会役員を担う等、地域の聴覚障害福祉の啓発を担っております。

 

 しかし、なによりも大切なことは、聴覚障害者としての自我の確立、障害を認識し、社会の中で生きていく勇気を育てることではないかと考えます。

 

 聴覚障害者の存在と権利保障、聴覚障害に対する高い専門性を有する教師の配置と育成を踏まえるとして、専門校としての京都府聾学校舞鶴分校の存続は不可欠であると言えます。

 

 まさに私たちの権利に関わる重大な問題です。

 

 ついては、全国的な動きである聾学校統廃合は、私たちの否定につながる重大な問題と捉え、どんなことがあっても京都府聾学校舞鶴分校を統廃合しないように取り組んでください。

 

                                                                                                    以  上

 

 

地元議員が血の叫び 舞鶴盲聾分校廃止・統合反対

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 手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

( 資料 舞鶴聾学校の中学部廃止が京都府議会本会議でどのように問題にされたか
1981(昭和56)年 12月 舞鶴地方府会議員の盲聾分校について京都府議会本会議質問より一部のみ抜粋  )

 

 当時の身体障害者連合会の顧問の江守芳太郎さんの息子さんの光起さんが、代表質問でど最初に盲聾分校の寄宿舎についてはどうなっておるのかということを質問いたしましたのも、こういう父母の要望についてどう対処してくれるのかという、こういうことに隣地してきた地元議員の血の叫びであります。

 

維持修繕費でつくった間仕切りが
 新しい寄宿舎?

 

 行ってまいりました。

 

 何と、半分、10人の部分については新しい寄宿舎が建つています。それと管理棟はできています。

 

 ところが定員15人とおっしゃっている寄宿舎は木造の2階建て、古いものであります。 

 

 そして15人の定員を、入舎定員をつくるために一番奥の8畳の間の廊下に畳を敷いて、入口を廊下の端に切りかえることによって10畳5人という定員をつくり、そして養護室を2つに仕切って2人の定員の部屋をつくったということで15人の定員がつくってあります。

 

 これは維持修繕費でつくった間仕切りであります。

 

 そして教育長は、「卒業生が4人ありまして新しく入ってくる生徒が3人ですから江守先生心配しないでください」と、「明るく豊かな寮生活ができるでしょう」という答弁がされた。

 

 こんなことで教育長は本当に、聾生徒の寄宿舎だという、定員が25名だといったようなことが、本会議場を通じて議員のまじめな質問に対する姿勢なのでしょうか。

 

 私は疑問を抱いてなりません。

 

地元府会議員が「地元議員の血の叫び」と
    反対した「統廃合問題」も強行

 

 舞鶴盲聾分校の聾分校の中学部廃止・統合に地元府会議員が「地元議員の血の叫び」とまで言って京都府議会本会会議で反対した「統廃合問題」も京都府京都府教育委員会の強行で押し切られた。

 

 そして、さらに今度は特別支援教育京都府教育委員会は、支援教育という名称を使っている。)の名の下に再び、舞鶴盲聾分校の統廃合の動きが強まってきていいる。

 

北部の盲聾関係児童の唯一の教育施設として府民の愛顧を受け育ってきた

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  手話を知らない人も

              手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介


( 資料 舞鶴聾学校の中学部廃止が京都府議会本会議でどのように問題にされたか
1981(昭和56)年 12月 舞鶴地方府会議員の盲聾分校について京都府議会本会議質問より一部のみ抜粋  )

 

府会議員
 きょうは舞鶴盲聾分校、特にろう学校中学部廃止の措置並びに教育委員会のとってきた経過等含めて疑問点についてただしておきたいとおもいます。

 

北部の盲聾関係児童の唯一の教育施設
として府民の愛顧を受け育って

 

 宮津舞鶴、福知山等、北部の市町村がそれぞれろう学校の必要を求められて、昭和24年に舞鶴市身体障害者福祉連合会が発足すると同時にその会の重点項目としてろう学校の設置が取り上げられ、自来その強力な運動にこたえられて昭和27年3月に臨時教育委委員会の決議として舞鶴聾学校の分校の設置が決められ、日赤の移転後の仮庁舎からスタートして盲聾分校が発生いたしました。

 

 自来、今日まで北部の盲聾関係児童の唯一の教育施設として府民の愛顧を受け、育ってきたわけでありますが、校舎が老朽してまいりまして、56年前後から全面改築という要望が出てまいりました。

 

 聾学校の父兄の方々と中学部統合についての要望を聞き、あるいは懇談会に参加してまいりました。

 

中学部統合は教育よりは児童の発達に
    影響するのではないかという心配

 

 これらの中で一番強調されたことは、教育効果もさることながら、盲学校の児童の場合には電話ですべてコミニケーションがとれるが、聾学校の児童の場合には口の動きを見る、目と目で合うという話し合いの中でないとコミニケーションがとりにくい。

 

 したがって本校統廃合の場合にはどうしてもそのことができにくくなって、教育よりは児童の発達に影響するのではないかという父兄の心配が強く、できたら義務教育中学部までは家庭の近くに置いてほしいとか、あるいはぜひそういった意味で中学部を存続したまま学校改築をしてもらいたいとかいう要望がきつく出てまいりました。

 

 これに対して京都府教育委委員会は「それは親離れが出来ていないのだ」と、「障害児であっても適当なときには親から離れさす、そして学校集団の中で教育をせしめていくことがより効果的だ」という自信と確信にあふれた発言でありました。

 

聾学校の寄宿舎で母親が子供
と面接される場所をつくりと言ったのに
 
 私は教壇に立ったこともなければ、教育に携わったこともありません。

 

 人を教えるような資格は生まれつき持ち合わせっていませんので、これだけの確信と自信を持って言われれば、そのことが多分正しいのであろうと。

 

 だから逆に、母親の方々が言われていることの方があるいは子供を愛溺している行為ではなかろうかという疑問を持ちながら、教育委員会の行為、処置、それから父兄の心配等を理事者に伝えながら経過を見てまいりました。

 

 教育担当の荒巻副知事は「そういうことは事実でありましょう」と、「聾学校の寄宿舎に母親が子供と面接される場所をつくり、そして北部から金曜日の夜ぐらいに寄宿舎に入ってもらう。

 

 そして子供と接しながら土曜日の授業を参観して土曜日に北部へ帰ってもらって、日曜日という親子の接触を通ずる中で両立ができるのではないでしょうか」、というような意見の開陳も聞かしてもらいました。

 

理論、理屈だけの自信
教育委員会の実践  全然ゼロなのか

 

 ところが、いよいよ59年の11月23日付で京都府広報によって教育委員会はこの聾学校の廃止の布告をいたしました。設置規則の一部改正がされました。

 

 恐らく、私はそういうことのできた、そういう討議、親や周辺の方々の要望等を聞いてこういう布告をした教育委員会は、12月定例府議会に少なくとも聾学校宿舎の調査費か改築費ぐらいは補正予算で提案されてぐるのだろう、あるいは知事に対して予算要求されるのであろう。

 

 それを、あんなこと言っておった教育担当の荒巻副知事が削ったのかなという疑問を持ちながら12月定例府議会に参加させてもらいました。

 

 全然教育委員会から予算の要求もありません。

 

 そうするとこの布告は、理論、理屈だけの自信に基づいておるのであって、本件についての教育委員会の実践というのは、だれやらがきのう申し上げましたように、全然ゼロなのかという疑問を抱きながら聾学校の寄宿舎を見せてもらいに行ってまいりました。