手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者が見たのと「同じ風景・情景・世界の中」に手話を見る者を招き入れてくれる

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④映像としての手話表現

  さらにそれに、手話の基本として、「動作性」が加わる。

 そこに、もう一つの手話表現を加えていくことによって「情感」と「ろうあ者が見たのと同じ風景・情景・世界の中」に手話を見る者を招き入れてくれる。

 このことに気がついたのは、長崎のろうあ者の被爆証言からである。

 

①路ぎわに赤ちゃんを抱いたお母さんの死体。自分は手を合わす。

②空を仰ぎ両手両足を空に向けたままの無数の死体。自分は必死で歩く。

③助けて、と言っているような人。助けられない自分。

④歯医者さんの家は跡形もない。

 手を合わす自分。

 家内の家が近く。

 行けなくて手を合わす自分。

 家に向かって歩く自分。

 累々と横たわる死体。

 その様子。

 

⑤ ひとりで歩いている自分。

 おいしそうな梨がある。

 拾って持って帰る自分。

 50°ぐらいの暑さ、燃えて熱を持つ電線。

 熱い。

 全部燃えた枕木。

 

⑥ 慎重に歩く自分。

 橋は落ちそうで危ない。

 バランスをとりながら橋の上を歩く自分。

 わずかに残った橋のレールを歩く自分。

 

⑦ふと下を見ると川の中には多くの死体。

 かげろうのようにゆれる地域。

 ひとり歩く。

 家に帰る。

 妻と子が無事。

 抱きしめる。

 

「情景①カット」自分の動き(手を合わす)。

「情景②カット」自分の動き(必死で歩く)。

「情景③カット」自分(なにもできない。)自分(歩く)

「情景④カット」自分の動き(歩く)。

「情景⑤カット」自分一人。梨。自分の動き(拾う)。情景。情景。情景。

「情景⑥カット」自分の動き(慎重に歩く)情景。自分の動き(歩く・しかも慎重に)情景。
「情景⑦カット」自分は見る。死体。全体の情景(かげろうのよう)。自分の動き(歩く)。自分はひとり。

 

 このように、情景と自分の行動を組み合わせて手話表現するが、「自分が見る」と表現するのは、川を渡る時の死体だけである。

 

「自分」が見た。

 

「自分」が見たらこうなっていた。

 

「自分」は、こう感じたという手話表現が続いていないで「自分」をも含めた情景を手話表現するその順序を注目する必要がある。

 

    意識の意識化
  手話表現の順序性の変化と手話表現の高次化

⑤ 手話表現の順序性の変化と手話表現の高次化

 この手話表現と順序性の組み合わせが、その手話を見る人々を「同じ風景の中」の中に招き入れる手話表現の「巧みさ」なのである。

 このことは、ろうあ者が見た情景ではなく「情景」の中に「見たろうあ者(自分)の姿を浮き上がらせる」という3次元的な手話表現なのである。

 情景の中にろうあ者(自分)がいる。

 そして、ろうあ者(自分)が情景を見るという表現は、手話表現を見る人に、情景の残像が残ったまま、語り手であるろうあ者の像が浮かび上がることになる。

                                                          
                                                          
  情 景        残 映           人 物       情 景         歩 く
 ( 風景 )    (残 像)                   ( 風景 )

 

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 手話通訳問題研究 1984年8月 23号より

 

ちょうど私たちが、映画を見るように、映画の中の主人公を見ながら、時には自分が主人公になり切ってしまう効果をあげるのである。

 

  映像の処理の場合は、映し出された映像のコマの組み合わせによって、臨場感を表して行くのによく似ている。

 赤い車。

 追う青い車

 逃げる赤い車。

 追撃する青い車

 空からの撮影。

 赤い車に追いついて行く青い車

 

こういう場面展開が、手話表現の中で繰り返される。

 

 空からの撮影=情景から遠ざかって二つの車を写す。


 この場面は、「原爆を見た聞こえない人々」でろうあ者が描いた絵の中に表現されている。絵を描いてた「自分」が、絵の中に「存在」して描いている。