(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
ろうあ者の被爆証言からも明らかなように、被爆という事実は、決して過去の問題ではなく、現在から未来につづく決して忘れてはならない事実なのである。
手話で話し合っているとき
話が食い違うことに
気がついて相互の手話表現を
取り入れながら
第三に感じたのは、少し技術論的になるが、ろうあ者の手話で語られた、手話を読みとり、文字化し、記録することの意味と困難性と留意点である。
結論から言うとこのことは非常に困難をともなう。
今日通常的に使われてしまっている「手話通訳」という言葉は、テレビやマスコミの影響で健聴者の音声を手話で伝達するものとして「広く知られて」いるようである。
敢えて言うならば、国や行政やマスメディアなどによって「一定の規制された手話表現」また「決められた手話」「決められている手話」によって音声を手話に変換する「範囲」のために手話として「変換」されているのではないかということである。
そのため「話して・受け手であるろうあ者」でさえ、「一定の規制された」また「決められた」「決められている」手話を学ばないと「手話として理解できない」という傾向は強すぎないかと思うことがしばしばある。
お互いが手話で話し合っているとき、しばしば話が食い違うことに気がついて相互の手話表現を取り入れながらコミュニケーションを図っていくという「手話の連関相互作用」がある。
手話にはこのことは非常に大切なことなのである。
人間同士のコミュニケーションの特徴が正にここにある。
人間の尊厳を高める仕事
それは手話通訳である
かって全通研大阪大会があったとき、外国語の同時通訳者の若き女性は、「同時通訳の理想」は、「通訳が存在をしていることが分からない状況を作り出すこと」だ、と講演して少なくない手話通訳者に影響を与えた。
彼女は言う。
運転席と助手席に異なった外国の人がいて、会話する。
私は後部座席で通訳する。
まるで運転手と助手席の二人が会話しているように時が過ぎていく。
私の存在は無くなっている、と。
だが、これは音声を媒介とする通訳の場合に言えることであって手話通訳の場合はそうは行かない。
ろうあ者⇔手話通訳者⇔健聴者というのが、手話通訳の特徴なのであるから。
「音声を媒介としてコミュニケーションを図る」のと「人間を媒介としてコミュニケーションを図る」のは根本的に違いがあるのである。
手話通訳者のポストは、外国語の同時通訳者のポストと比べて当時は極端な差があった。
だから、みんなは同時通訳者の講演に聞き惚れたのかも知れないが、手話通訳者は、ヒューマンコミュニケーションを主とする仕事にもっと自覚と誇りを持たなければならなかったし、それを保障するための待遇を大いに要求してもよかった。
人間の尊厳を高める仕事、それは手話通訳である、と言って良かったのではないかと思う。
長崎の取り組みはまさにそのことを証明している。