手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ協会の再建がなければ 京都の手話

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手話を知らない人も

              手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  戦後ろうあ協会の再建をするため大変な努力をしたことが述べられている。

 

 このろうあ協会の再建がなければ、戦後の混乱期はもちろんその後のろうあ者福祉・聴覚障害者福祉は後退したのではないかと思われる。

 

 ろうあ者の結束がどんな成果を産みだしたかが、以降に述べられる。

 

 今では、あたりまえのように思っていることも、実はろうあ協会の血と汗の努力の結果であることが解る。

 

 再建は、倒れたものをもう一度立てる動作、または旗を立てる(揚げる)の手話。

 

 ため・的を射る・目的を果たす、目指すなどなどの手話。

 

 拳を立ててその中心の円に人差し指があたるという動きで、ため。

 

 努力は、岩盤をくり抜くなどの意味を含めて左手を岩や板に見立てて、人差し指を錐のように動かす。この手話の動きで、努力している程度が解る。

 

 ました。は、両手をそろえて付け、それをひっくり返す。

 

 本をひっくり返すことが、授業の終了であり、次の時間には、ひっくり返した本を戻して授業の開始という動作から、終了しました、完成しました、終わります、などの意味を含ませた手話だとされている。

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 戦争に負けた後、京都ろうあ協会の再建を目指して一生懸命努力しました。

 

全国のろうあ者が結束して交流しようという意気込み 京都の手話

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手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー


  1948年 5月10日 第1回全国ろうあ者大会が京都で開催された。

 

 その時の想い出を明石欣造さんは語る。

 

 戦後の混乱期。食べ物(戦前から続く配給制など)や宿泊先も何もかもが苦労の強大な塊だった。

 

 でも、全国のろうあ者が結束して交流しようという意気込みは、困難を打ち砕いた。

 

 そのことのほんの一部を語る明石欣造さんの話は大変貴重だと思う。

 

 手話では、第一回としないで、初めて(初めて・始めては漢字の意味的にも区別されていたが。)という手話は、この写真では手のひらを水平にして、すぐに腕にあげて1を表しているが、頭上より高い位置まであげていることから感動の感情が強調されている。

 

 通常は、手のひらを水平にして、すぐに腕にあげて横一で人差し指を胸のあたりまであげるのだが。

 

 苦労は、あれこれと気を遣うという意味で頭を叩く手話。この手話は、めんどう、とも使われた。

 

  砂糖は、なめると甘い動作の手話。酒は、顎と額を下から上にほんの少し軽く叩く手話。

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  初めて全国ろうあ者大会を開きました。


 大変苦労したのは、砂糖や魚や酒などが不足していたことです。これはどうしようもないことでしたが、いろいろと考えて役所にお願いしました。役所からチケットをもらい、(不足していたものを)交換することが出来てみんなに大変喜んでもらうことが出来ました。

 

大原省三さん  手話を愛し 手話を深く研究  手話 の源流 を発表 源流の意味が受けとめられない人々へ 

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  最初に述べておきたいのは、「右手に左手を開いて右手開いた手を閉じる手話」を伊東雋祐氏は、「癖」というように書いているし、捉えていたが、これは明らかに違う。

 

 「右手に左手を開いて右手開いた手を閉じる手話」は、手の中に「取り込む」「覚え込ませる」という手話で、「癖」という手話ではない。

 

 「癖」と訳すことでその後の話の内容がまったく異なってくる。

 

 明石欣造さんは、大原省三さんとの交流をひじょうに大事にしていた。

 

 大原省三さんは、「手話の知恵―その語源を中心に」などの著作を次々と世に現し、手話の知恵、手話の語源を非常に大切にした人である。

 

 元々画家で、ろう学校の教師をしていたが、若い頃から日展に入選されるほどの腕前の持ち主であり、ウイットにとんだ話をされる。

 

 大原省三さんの自宅でアトリエで手話について長時間話し合った。彼は、戦前のろう学校の教科書を調べあげて、手話の語源を研究していた。

 

 話の中で、戦前のろう学校の教科書は漢文でとても難しく、授業に飽きた生徒は教科書の「挿絵」に魅入って時間の経つのを待っていた。

 

  その「挿絵」の中から取り入れられた手話も多い、と具体的に「挿絵」と手話の関係を教えてくれたことは今だ忘れられない。

 

 不思議なことに、「挿絵」の中から取り入れられた手話は京都の手話とほとんど一緒だった。

 

 大原省三さんと意気投合してから以降、大原省三さんの絵とともに手紙のやりとりが長く続いた。

 

 明石欣造さんと大原省三さんは、若い頃から交流があり、手話の意味や手話の大切さやその芸術性まで話が弾んだことだろう。

 

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  みなさんもご存じだと思う著名な大原省三(耳朶をつかんで=大原省三)先生。

  私は(大原省三先生を)尊敬しています。手話を非常に深く研究することに一生懸命になって非常に感動しました。
 
 私もまだまだ(意味深く研究していない=つまらない・到らない 謙譲してあえて表現している。)ですが、習得した京都の昔の手話を広め指導しているんです。

 

繋がりをもって連続的に表現されている手話のなかに 京都の手話

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手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  手話を撮った写真の次への写真の間にある動きは、とても大切なものであるが、右手と左手などの位置を知って次の写真を見てほしい。

 

 右手左手などの動きが、次の手話になるとスムーズに動かせるようになっていることが解る。

 

 つまり繋がりをもって連続的に表現されている「証し」なのである。

 

  手話で表されている「映画」は、右手の平と左手の平を上下に回して動かしフイルムの一コマ、一コマが動く様子で映画という手話を表現している。

 

 ところが、 現在、よく見かける手話表現は、フイルムが切れて、一コマ・一コマ・一コマとなって、連続した手話表現になっていない場合が多い。

 

 ギクシャクした手話とも言おうか。

 

 明石欣造さんが、よく言っていたのは「ギクシャクした手話」は、とまどいやごまかしがある手話で、そこにはとまどいと自信のなさなどが解るということを想い出す。

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  (邦画で字幕がない時は)

 

   映画を観る前にいろいろな本(映画 注当時大量に発刊されていた。時には、脚本が掲載される時もあった。)探して読んで解っておく。

 

 会話などで解らない時は、筆談で聞いて、映画を観てなるほどなるほどとわかった。

 

 するととても良い映画で忘れられなくなった。

 

映画が大好き(好きで好きで) 邦画字幕がなくても愛せた訳 手話で伝え合った映画の感想 

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手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  明石欣造さんからも同世代のろうあ者からも映画の話をよく聞いた、というか手話で話された。

 

 それも手話を学ぶ上で大いに活かされた。

 

 だが、しばしばなぜこんなにも映画の内容に詳しいのか、と疑問に思うことがあった。

 

 洋画=西洋映画は字幕があるが、邦画=日本映画もとても詳しかった。今だに分からないのは、擬音を説明されたことである。

 

 西部劇の銃の音やアメリカインデアンの叫びなども字幕には書かれていないが、独特の擬音表現された。

 

 邦画に字幕をと言うことで、ろうあ者が特に観たいという映画「ベトナム」を独自にオーバヘッドプロジェクターを使って上映することが出来たのは、1969年のことであった。その苦労と多くの人々の協力は忘れられない。

 

 特に映写技術、映画館ではない会場、機器を貸し出してくれた方々の笑顔。観客の大きな拍手は脳裏に焼き付いている。

 

※ 以下の写真の脚注の手話の文字は伊東雋祐氏が書いたが、掲載当時から疑問を持っていたので明石欣造さんの手話に添って文字に置き換えてみる。
  なお、明らかに間違った注釈があるのでそれは文中で明かにしたい。

 

 

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  私は映画が大好き(好きで好きで)です。特に映画になると我を忘れて夢中になります。
 外国映画の時は、字幕が流れるので観ていて分かるのですが、日本映画は観ていても分からないので困るし、理解が出来ない。

 

お金がなくなる すっからかん 避ける 逃げる 逃走 逃亡 適当に ~的 ピッタリ 合う 塩梅 京都の手話

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー


  お金がなくなる。
 すっからかん。

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   右手でお金の手話をして、それが両平手ですりあわせることで、手元のお金がなくなったという手話。

 

 株、商売や競馬、競輪、賭博などですべての金を失った場合などでよく使われた手話。

 

 怠ける。
サボる。

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   漢字の怠けるの、ム、口に心のハだけを口の上に組み合わせた手話であるが、ぼんやりしている、鼻水垂らしてなにも考えていないなどの意味からの手話。

 

逃げる。
逃走。
逃亡。
避ける。

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身体を右から左に動かして、逃げようとする姿を示して逃げるの手話。

 

 あ、やばいと逃げる。

(話から)にげるなど。

 

適当に。
~的。
ピッタリ。
合う。
塩梅。

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 左右の人差し指をそれぞれ指先に合わせて、合っている、適当に、「紳士」などの意味を持った手話。

 

 写真は、左右入れ替わっているので、右側から見ていただきたい。

 

 

 

手話で言いたい機微に触れる 京都の手話

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

次の写真を手話の語彙だけで羅列すると

 

  新聞(最初の写真は京都などでの手話) 二つ ある(存在)一つ 東京(東) 広がった (かなり)昔  (人を)  呼び集め 左手に持ち(紙・新聞紙)    頭 布(和手拭い)置いて     左手に持った(紙・新聞紙) を 指さして  これこれ (と言う・買って、と言う) (これが)  切っ掛け(はじまり) ここから(から) だから(関係)正しい わからない   左手に持ち(紙・新聞紙)    頭 布(和手拭い)置いて

 

となる。

 

 手話通訳すると、

 

 新聞という手話には二つある。東京を中心に広がった(新聞という手話で)昔々人を呼び寄せて、これこれしかじかと新聞を指さして新聞が売られていた。この動きを手話で「新聞」という手話になったが、どちらが正しいか分からない。新聞、新聞‥‥‥

 

 と通訳できるが、最後の部分で最初の京都などの新聞の手話ではなく、東京を中心に広がった新聞の手話の方向を見て新聞を繰り返していることを読み解けば、

 

  どちらが正しいか分からない、東京を中心に新聞、新聞って手話しているけれどもねぇ‥‥‥ 

 

とも手話通訳する必要があるのではないだろうか。

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この新聞の手話を新聞配達する動作を示しているとする意見があるが明治時代にはじまった新聞は、まだ店頭販売ではなく街頭販売だった。

 

 明石欣造さんが、東京を中心に広まったと説明する「新聞の手話」は、江戸時代の「瓦版売り」を彷彿とさせるものでそれは明治時代にも継承される。

 

 京都の「新聞の手話」は、右手の平を水平にして紙・新聞を表し、左手をぱっと広げている手話(広がる、知らせるなどなど)から、新聞が情報を広めるものという意味で示されていて、今では想像できない時代の新聞の広め方や販売方法である。

 

 明治時代頃の社会の動きを見事に捉える手話として大切にしたい。

 

 

 

 私は、手話通訳は、ろうあ者と日常的にに接してその人と心打ち解け合うことが出来る人でないと、そのろうあ者の手話で言いたい機微に触れることは困難である場合があることを想定しなければならないと思い続けてきた。

 

 手話が「どちらが正しいか分からない」といいながら  明石欣造さんの表情は、京都などの新聞のほうがいいぞ、と読み取れる。読み取らなければならないと言える。

 

 写真の下線部分の文字は、伊東雋祐氏が書いているが、必ずしも適切ではなく伊東雋祐氏も「おまえに任すわ。ようわからんようにになってきた」と吐露し始めた頃の写真である。

 

 この連続写真は、 一コマ一コマをカメラマンの豆塚猛氏と確認しながら手話や手話表現の深層を確認したもので、125分の1秒の瞬間の写真の連続撮影である。

 

 その一瞬とも言えない程の短い瞬間に籠められた想いや表現。

 

 手話には、多義多彩な意味合いが無限に織り込まれている。