手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

物を投げつけられたり水をかけられ 未就学のろうあ者を訪ねる途方もない努力

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   手話を知らない人も

          手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

   想像を絶する努力と時間をかけて

 

 山城ろうあ協会(京都市以外の南部から奈良県境までの広い地域)ろうあ者相談員(当時)は、未就学のろうあ者やろうあ協会の人々にろうあ者成人講座の案内と参加の呼びかけのために想像を絶する努力と時間をかけて走り回った。

 

 徒歩。自転車。畦道。車なんてとてもじゃないが持っていないし、車でも行けなかった処。

 

 未就学のろうあ者が居ると知って探しあぐねてその家にたどり着くと家の周辺は真っ暗。

 

 数知れず家を訪ねてもるうあ者が家に居ない、と戸を堅く閉められる。

 

 物を投げつけられたり水をかけられたりしたのは一度や二度ではない。

 

  何も分からない未就学のろうあ者
 外出することもひと悶着

 

 何度も何度も訪問して、その家の人も根負けしてやっと未就学の本人に会える。

 

 何も分からない未就学のろうあ者を家から連れ出してろうあ者成人講座に参加させる。ひと悶着を重ねてようやくろうあ者成人講座に連れてきた。

 

 みんなに紹介する。本人はじっとしているだけ。

 

 それで終わり。

 

   見よう見まねで手話
   みんなは喜んで拍手

 

 その繰り返しの中で、その未就学のろうあ者が「見よう見まねで手話」をする。みんなは喜んで拍手。

 

 本人はうれしそう。

 

 数え切れない時間が経過して未就学のろうあ者が自分から喜んでろうあ者成人講座に来るようになった。

 

 その人は、そこに居るよ、と教えられた時はびっくりした。

 

 笑顔の中でみんなと溶け合っているだけだった。

 

 

手話 は ろうあ者同士の会話 から生まれ 創造されてきた「なるほど」「へー」「そうだったん」「教えてくれてありがとう」「お互いさま」 の 手話 が飛び交うようになると

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   手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

   要求運動が進むにつれ大きな変化

 

 ろうあ協会の私たちが要求を持ち寄り、要求を実現してこそ憲法が生きているという要求運動が進むにつれ大きな変化に気がついた。

 

 ろうあ者同士にあった「ねたみ」「しっと」「悪口」が「教える」「学ぶ」「教え合う」と様変わりしていったからである。

 

 学びあう、教えあう中で人間は大きく変わる。

 

   「なるほど」「へー」「そうだったん」
「教えてくれてありがとう」

       「お互いさま」

 

 手話の「なるほど」「へー」「そうだったん」「教えてくれてありがとう」「お互いさま」など「ありがとう」「お互い」が飛び交った。

 

 この手話表現に魅了された。

 

 お互いは左右の腕をクロスして親指と人差し指を閉じる=同じ クロスさせて表現するのであなたも私も同じ=お互いさま (あなたも私も一緒)の手話表現である。 

 

    ろうあ者が学び合う場が保障された

 

 1960年代末。高齢のろうあ者は「手話」でなく「手まね」という手話をすることを教えてくれた。

 

 人差し指をぐるぐると回す表現ではなく、両手の手のひらを回して、それを頭の中に入れるという表現だった。

 

 「手話」「まねる」という組み合わせが、「手まね」という表現だった。

 

 ろうあ者が学び合う場を京都府京都府教育委員会社会教育課がろうあ者成人講座などとして保障してくれた。

 

 地域によっては1年間に1,2回であったとしてもこれは画期的な出来事であった。

 

 未就学の人も高等教育を受けた人も含めてこのろうあ者成人講座が開かれた。

 

 このとり組みはろうあ協会の努力の結晶である。

 

ろうあ者の生きがいのある暮らしを知事が約束 手話通訳配置だけを答弁しなかった深いわけ

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  手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
 
   ひとりのろうあ者に一人の手話通訳を
   ろうあ者の人々が生きがいのある生活

   が出来るようにこれはお約束

 

 1966年京都府議会本会議。

 

その後のろうあ者の生活に大きな影響を与える大事件があった。

 

 京都府議が、手話通訳の問題を福島県に続いてとりあげられた。議場の演壇の横に手話通訳者。ろうあ者は傍聴席から食い入るように議場を見渡したという。

 

 ひとりのろうあ者に一人の手話通訳を、と迫る京都府議は蜷川知事に迫った。

 

 ところが蜷川虎三京都府知事は、「ろうあ者の人々が生きがいのある生活が出来るようにこれはお約束します。」と答弁した。

 

 府議会議場の真ん中に手話通訳が立ち、京都府議、知事が答弁する、二階で傍聴していたろうあ者はそれだけで大感動であった。

 

 その京都府議会は、新議会棟の移転にともない放置されたままにされていた。
 
  知事答弁の
「ろうあ者の人々が生きがいのある生活が出来るよう」の深い意味

 

 数年前から京都府議会図書館と旧議会場を数え切れないほど往復することとなった。京都府議会図書館で、1950年代から1980年代にかけての京都の障害者問題や障害児教育が京都府議会本会議でどのように取り上げられてるのかを調べるためであった。

 

 膨大な本会議資料に目を通してコピーを頼む。そのコピー代は離れた旧府庁府議会本会議場の情報開示の窓口に行って支払わなければならなかった。

 

 非常に面倒なことであったが、旧議会場の二階を見てああ、ろうあ者の人々があそこで傍聴したんだと何度も眺めているうちに蜷川虎三京都府知事が「ろうあ者の人々が生きがいのある生活が出来るようにこれはお約束します。」と答弁したことの真意が理解できかけた。(現在は旧府議会議堂は改装されている。)

 

  たとえひとりのろうあ者に一人の手話通訳者がいたとしても「ろうあ者の人々が暮ら」していけなければ何の意味もないではないだろうか、なによりもろうあ者の人々の暮らしが日々生きていてよかったと思えることが大切だがそれだけでは不充分だろう、と考え、ろうあ者の人々が集い憲法を学んでいただく。

 

 主権者であることの自覚の上に京都府政に要求を出して暮らしを守る主人公になっていただくことが大切だ、と考えたのではなかろうか。

 

   試食した満腹感
自分たちの悩みを話すなかで憲法学習


 その憲法を学ぶ方法は、講義を聴いてノートすることではなく暮らしの中で学んでゆく。

 

 午前中は料理教室で午後からはそれを試食した満腹感の中で自分たちの悩みを話し交流する。

 

 その方法は、ろうあ者のそれぞれの地域でそれぞれの方法で行われるようにして、その援助を京都府がするということであった。

 

  ろうあ者の人々は、憲法は自分たちのものであり、自分たちのことも含めて書かれている。

 

 でも、書かれていることと現実とは違うではないか。

 

 これはおかしい。

 

 私たちが要求を持ち寄り、要求を実現してこそ憲法が生きているということになる。

 

 そのように学び始めて「陳情」から「要求」へとろうあ協会は飛躍的な行動を開始する。

 

 このことはろうあ者自身にとっても社会的にも国際的に見ても画期的な行動であり、運動であったことを知る人は少ないのではないだろうか。

 

「同じ身振り」をすると満面の笑みを浮かべて 手話を学ぶ真髄

 

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手話を知らない人も

       手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  対話するのは大地だけ

 

 京都府下を縦断してみるとその広さや地域の特徴の違いに驚くことが多かった。

 

 京都市内を除いてろうあ者の人々は、点在して暮らしていて「孤独」と共に黙々と労働していた。

 

 ろうあ者同士行き来する交通手段もなく寂しい想いをしていた。

 

 対話するのは大地だけ。

 

 現在ではすぐ行ける場所もくねくねした山道の峠をいくつも越えてろうあ者の方の家を訪問することは多かった。

 

 訪問するととても歓迎された。ろう学校にも通えなかった人も多く、独特の身振りで話をされた。

 

 また生活上の悩みも出された。と、書けば簡単に解ったかのように思われるが、そうではなかった。ある「ひとつのこと」を知るのに多くの時間がかかった。

 

 自分の作業場に連れて行ってくれて
作業のようすと同時に「身振り」をして

 

 わかってもいないのに、「うなずく」ことは、「了解」「わかった」ということをしてはいけないという教えを思い出してわからなければ、何度も尋ねた。

 

 その度に、ろうあ者は粘り強くさまざまな自分なりの手話で幾通りも表現される。

 

 申し訳ない気持ちと共に「適当にわったふりをする」と一瞬頭をよぎるが、それはよくないと思い「?」を繰り返した。

 

 すると私の手を引いて、自分の作業場に連れて行ってくれて作業のようすと同時に「身振り」をしてくれる。

 

  あ、そうか、このことだったのかと解って

 

 あ、そうか、このことだったのかと解って「同じ身振り」をすると満面の笑みを浮かべてくれた。

 

 そうなると、あれ、これ、それ、と次から次へと教えてくれ私もそれを覚えた。

 

 これは私の手話を学んだ真髄であった。

 

 気持ちが通じ合う、こころが通じ合う感動を消すことは出来なかった。

 

 生活の中の手話。机上の手話では、満面の笑みを浮かべた人間の連帯が出来ないことを深く深く学んだ。

 

 同時に非常に驚いたことがある。「身振り」表現が実に見事なのである。

 

どような苦境におかれても
その「矛盾」を取り入れながらも
一番特徴的なことを「一動作」で表現

 

 作業の工程の動作のある表出した特徴を「切り取って表現」するようすは人間がどのような苦境におかれてもその「矛盾」を取り入れながらも一番特徴的なことを「一動作」で表現する。

 

 ここにコミュニケーションの無限の可能性をがあることを知ることが出来た。

 

 「かしこいろうあ者」「かしこくないろうあ者」区別の分断が大きく消え去る事件が起きた。

 

自分の意見をあらわせる文字を学びたい

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手話を知らない人も

                 手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

  

本人がうなづいているのに‥‥‥
   あんたが違う手話通訳をしただろ

 

  「わかった」「分かった」と「解った」

 

  「うなずく」ことは、「了解」「わかった」ということでないという明石欣造さんの教えは、しばしばトラブルを引き起こした。

 

「本人がうなづいているのに、あんたが違う手話通訳をしたんだろう」

 

「わかったといっているのに、なにをいまさら違うことを言うのか」

 

と手話通訳をしていて怒鳴りつけられる場面があまりにも多すぎた。

 

  言いたいことは言わんとなぁ
  そのため手話通訳が

 

 見ていたろうあ者から後で「ごめん、ごめん、分からんのに迷惑かけて‥‥‥手話通訳のあなたが怒られるなんて‥‥‥」と謝られることがしばしば。

 

「かまへん、かまへん、しんぱいせんと、言いたいことは言わんとなぁ、そのため手話通訳しているんやから」

 

と何度も話し合ったことか。

 

 分からなくても分かったとしなければ、生きてこれなかった哀しみ。その哀しみを打ち破ることの困難。

 

 でも‥‥‥手話通訳と共同でその哀しみを変革する見通しが持てはじめてきていた。
 
  ろうあ者の多くの人々から
「読み書き出来る」ようになりたい

 

 そうなると、ろうあ者の多くの人々から「読み書き出来る」ようになりたいと要求が出され「筆談教室」が開かれた。

 

 筆談で意志のやりとりをすることで、自分の気持ちを現すことが出来るようになってくる。

 

 自分の意見も言い表せるようになってくる。

 

 文字を書けることは喜び。

 

 書いた自分の文字は、自分の喜びの宝物。

 

 文字は、残せるので何度も見直すことが出来る。

 

 このことは、後々大きな意味と広がりを示すことになる。

 

 この時代、ろうあ者の要求は「手話学習教室」ではなく「筆談教室」であったこと、自分の意見をあらわせるすべとしての文字を獲得することであった。

 

あの人の手話 かしこいろうあ者の手話   私たちの手話でない 絶対しないで!!!!

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手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  かしこいろうあ者の手話はしないで‥‥‥

 

   「あの人はかしこいろうあ者」
 
  1969年当時、専任手話通訳者にとって今でも忘れられない言葉があるという。

 

「あの人はかしこいろうあ者」

 

「かしこいろうあ者の手話はしないで‥‥‥」

 

 という「依頼」だった。

 

  「身振り」「しぐさ」
「空(sora)文字の漢字」

「空(sora)文字のひらがな」
「戦前のカタカナの空(sora)文字」

   やジェスチャー

 

 「かしこい」「かしこくない」をどこで区別しているのか、ずっーと考え続けたと言う。

 

 私に手話を教えてくれた大恩人の京都ろうあセンター館長の明石欣造さんは、いくつかの場所で手話通訳するとき、ここでは指文字は絶対使ってはだめ、手話で伝えること出来なければなければ、「身振り」「しぐさ」「空文字の漢字」「空文字のひらがな」「戦前のカタカナの空文字」やジェスチャーであらゆる方法で伝えるようにと言われた。

 

 その後、解ったことは「あの人はかしこいろうあ者」「かしこいろうあ者の手話」の意味は、大学や普通学校でなどで学んだろうあ者。音声語を獲得してから失聴したろうあ者を言っていたことである。

 

 すなわち読み書きが堪能なろうあ者の手話は自分たちの使う手話と違う手話である。

 

 別に手話でなくてもコミュニケーションが出来るのに、音声語も発することが出来るのにろうあ者の前では、手話で話し、健聴者の前では音声で話す使い方をしている。

 

 読み書きも十分出来るから、いろいろな書物を読んで知っているので、自分たちに手話で話す時は、こんなことも知らないのか、と言わんばかりの手話であったり、分けのわからん手話をする。

 

 ともかく「いばる」「私たちを低く」見ている。

 

 などなどのことであり、ろうあ者なのにろうあ者でないろうあ者、と言う言い方をする人もいた。

 

   社会的個人的評価を受けたのは

 

 このことは、後々大きな波紋を呼ぶ。

 

 「ろうあ者なのにろうあ者でないろうあ者」と言われた人々はその後社会的個人的評価を受けて、「ろうあ者なのにろうあ者でないろうあ者」と言ってい人々はその後社会的個人的に無視されていくことになっていったが。

 

  あなたはろうあ者?

 

 「かしこいろうあ者の手話はしないで‥‥‥」を受けて手話通訳をした。

 

 終わると「あなたはろうあ者」「口話でよんで手話通訳しているの」「聞こえるの」「どっち?」とよく聞かれた。

 

  手話通訳を見てうなずくのは
分かった、理解した
ということではない

 

 さらに

 

「ろうあ者の手話が解らないとき、それはどんなことと必ず聞いて、あいまいなな手話通訳をしないこと」

 

「ろうあ者が手話通訳を見てうなずくのは、分かった、理解した、ということではなく、手話通訳していることにうなずいている場合が多いから注意するように」とも明石欣造さんから言われた。

 

すべての道はろうあ協会の「つどい」に

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに

 

  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 ろうあ者の方々がつどうのには、今では考えられない苦労があった。

 

 電話があっても使えない時代。

 

 ろうあ協会の人々は、手渡しでみんなが郵便配達員になってろうあ協会の会員の家に配りに行く。

 

 車の免許も車も買えなかった時代。自転車を持っているろうあ者も少なかった。

 

 電車もバスも少なくて、たとえ駅から歩いても遠い。

 

 ろうあ者に家を貸してくれる人は少なく、貸してくれても遠くて不便な場所だった。

 

   ろうあ協会の集まりを
 手渡すのに何時間もかけて

 

 一枚の「つどいの案内を渡す」のに何時間もかかることがあった。

 

 ほとんどが徒歩。

 

 仕事が終わって疲れ切った身体を闇の中の道をすすませる。

 

 ろうあ者同士会えればいいが、会えなくても「一枚のつどいの案内」をポスに入れておく。

 

 すべての道は、ろうあ協会の「つどい」に通じていた。

 

  すべての人々が平等で

しあわせにする地下水路

 

 この地道な積み重ねの繰り返しが、ろうあ協会の絆を次第に強く、強くしていったと言える。

 

 その絆は、ろうあ協会の仲間はみな平等であるということだけでなく、ろうあ協会の会員でなくても、いやすべての人々が平等でしあわせにと地下水路をはりめぐらせた。

 

 ここにろうあ協会の偉大さがあった。

 

 インクルージョンとかカタカナ文字が叫ばれる前にすでに京都のろうあ協会は、それらをやり遂げていた。(以下、名称・表現は当時のままで表記)

 

人を蹴落とすことは知っていても

学ぶことで助け合うことは

  知らされなかった

 絆を深く深くした学びあい
教え合いのつどいのはじまり

 

 受験戦争をくぐり抜けてきた専任手話通訳者は当時を振り返って次のように言っている。

 

 私にとっては、学習する、学ぶというのはとても苦痛なことだった。

 

 人を蹴落とすことは知っても学ぶことで助け合うということは全くといって無かった。

 

と。

 

   ろうあ者の人々の中に
「ねたみ」「しっと」「悪口」

 

 事実をまず書いておこう。

 

 京都ろうあセンターが出来た頃は、ろうあ者の人々の中に「ねたみ」「しっと」「悪口」などは、たくさんあった。

 

 それはどんな人にもあることだから当然のことだった。