手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
社団法人京都ろうあ協会(当時)の事業として京都ろうあセンターが発足したのは、1969年10月、京都府立盲学校の講堂で設立されたとされている。
だが、それは「儀式」であってその以前から京都ろうあセンターの仕事はすでにはじめられていた。
さらにもっと以前から、京都ろうあセンターの仕事は民生(福祉)行政の無策の中で行われていたとも言えることは意外に知られていない。
「自分だけの利益」を考えない
純粋な動機と運動
1969年以前、福祉行政(当時民生行政といわれてもいたが。)が無策であったがゆえんにろうあ者の人々は、意識的にも無意志にも多くの人々と智恵を出し合って自分たちが生き抜くすべをもとめ運動した。
「自分たちだけがよかったらいい」
「自分たちだけのために行政が~して欲しい」
「自分だけの利益」
を考えない純粋な動機と運動があった。
今考えても、このことは間違いがないし現在の状況を見ると反省すべき事が多々ある。
コミュニケーションである手話
自然淘汰され気持を伝えるものとして創造
「自分たちだけがよかったらいい」「自分たちだけのために行政が~して欲しい」「自分だけ利益」を考えない純粋な動機と運動があったからこそ、巨大な絶壁に見えた多くの困難がひとつひとつ手渡しで打ち砕かれて行った。
それとともにろうあ者同士を支え合うコミュニケーションである手話が、自然淘汰されお互いの気持ちを伝えるものとして創造されていた。
これらの事を当時だから純粋な動機と運動が出来たのであって、現代のような複雑な福祉施策の中では行政の援助なしに事業は出来ない。
事業拡張のためには、純粋な動機と運動だけでは事業はすすまないと言う聴覚障害福祉に携わる職員がいる。
細分化に細分化された行政の基幹
行政がなすべき仕事を回避するシステム
だが、はたしてそうだろうか。
複雑な福祉施策とされる中身を見ると、行政の援助を受けた以上に行政から縛りがかけられ、行政にものが言えず、援助を受ける対象の人々の中で対立が引き起こされてはいないだろうか。
細分化に細分化された行政の基幹を看ると、援助を受ける対象の人々の自己負担の増大と行政が本来なすべき仕事を回避するシステムが巧みに形成されているように思える。