手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
最近のはやりことばで、ろう学校はろうあ者のアイデンティティー【identity】と簡単に言い切る人が少なくない。
しかし、この意味合いは本当にろうあ者とろう学校の関係を的確に表しているのか非常に疑問である。
非人間性に疑問を持ちながらも
大矢さんは、「君たちも辛抱強い人間になって、人からかわいがられるようにならねば」とろう学校の教師がさかんに
「ミシンや機械の一部になってロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば、やめてくれ、と追い出されてしまう……。」
と、生徒に教え込んだ非人間性に疑問を持ちながら、
「先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てるろう学校にしなければ」
と、生徒会を中心にろう教育改革の行動を起こす。
「間」を深く知れば
ろうあ者や聴覚障害者の
ろう学校に対するねがいが
普通なら、教師たちの日常からろう学校を否定する。
しかし、そうしないで、ろう学校の「教師が誇りを持てるように」しなければとろう学校高等部の時に思い至る。
さらにろう学校を卒業したことを誇りに思っているとまで言い切る。
私は、この「字間」にこそ、ろうあ者や聴覚障害者のろう学校に対するねがいや期待、ろう学校で得たものなど奥深い「特別」なものがある、と思う。
障害児者にとっての「学舎」は
他の人々以上の深い深い意味合いがある
単なる母校、懐かしい思い出の学校でないのがろう学校であることは、被爆した長崎のろうあ者の証言に多々出てきた。
信じられない行動をして、我が目で、すでに移転して軍需工場となった「ろう学校」を確かめに行っている。
まさに、原爆が炸裂したその真下にあった「ろう学校」を。
私は、このことを充分深め切れていないが、障害児者にとっての「学舎」は、他の人々以上の深い、深い意味合いがあると思える。
本当の意味の「特別」「支援」を
「特別」「支援」と言いながら 安易に障害児者の「学舎」を取り壊してはならない。
今、教育現場で「特別」「支援」というなら、本当の意味の「特別」「支援」を考えないで、安易に障害児者の「学舎」を取り壊してはならないと思う。