(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。
被爆したろうあ者と
共にその場所 その時間に居る
菊池さんだけではなかった。
多くの被爆したろうあ者は、同じように手話で、語り続けてくれた。
それは、その情景に私たちを招いてくれることでもあり、共に体中が凍りついたり、恐怖で凍りついたり、すくんだり、臭いや味覚さえも感じるように手話で語りかけてくれる。
その時は、私も、その話を見ていた人々も、被爆したろうあ者と共にその場所、その時間に居る。
時空を超えた情景に私たちを導いてくれる
「手話の達人」の手話表現は、まさに、本当にあったその時間に時空を超えて情景に私たちを導いてくれる。
その意味でも、手話は、単なる手の動きだけではない。
ある手話表現で事足りると決して考えられない。
聞こえない人々が、苦労に苦労を重ねて創り出されてきた手話は、それだけ表現が無限で立体的で3次元的なのである。
長崎から菊池さんの「聞き書き」の文と絵が送られてきた時、私は驚いたことと非常に苦しんだことがあった。
美しすぎる色合いが優っていた
深い哀しみより
菊池さんの絵は、あまりにも鮮やかすぎた色彩で彩られていた。
深い哀しみが感じられるのだが、美しすぎる色合いが優っていた。
非常なコスト高となり印刷会社支払うことは不可能だった
被爆の絵でこれほど鮮やかな色彩と絵は、私自身目にしたことはなかった。
当時の全通研は、「手話通訳研究誌」は、各地のみんなさんが、本を売ってくれたお金をすぐ印刷屋に支払うほど金はなかった。
その上、私が、「手話通訳研究」の表紙をカラーにしたことへの批判は強かった。
白黒のインキでいい、紙も上等すぎる。何度言われたことか。編集長は孤独だった。
そのため長崎から送られてきた菊池さんの色鮮やかな被爆直後の長崎の絵が家までたどりついた瞬間。白黒印刷するかどうか迫られた。
当時、菊池さんの絵をカラー印刷にして、そのページを作ることは経費の面で非常なコスト高となり印刷会社支払うことは不可能だった。
キノコ雲を真下から見上げた
菊池さんの鮮やかな色
「原爆を見た聞こえない人々」の表紙を見ていただきたい。
この表紙が、白黒印刷でカラー印刷でなかったらみなさんはどのような印象を持たれることか。
巷にカラー刷りの本が溢れているときに、私たちの財力不足のために諦めるのか。
それは、まさに原爆投下直後を歩いた菊池さんの見た「映像」を低め、うち消すことになるのではないか。
悶々とした日々が私の中で過ぎ去った。が、時間とともにカラー印刷という方向が強くなってきた。
印刷会社と何度も掛け合った。こちらも今後取引を続けるから、とも言い。破格の値段にして欲しい、と言い続けた。
それは、どんなことがあってもカラー印刷しなければ、菊池さんの言いたかったことが表現できないと思った。
菊池さんの絵は、よくよく見ないと、どこが空で、どこが地上か区別がつかなかった。キノコ雲を真下から見上げた菊池さん。
「上からの映像」
「下にいた人々から見た映像」
私たちには、アメリカ軍がが原爆を投下した時に撮影した、空に浮かぶキノコ雲の「映像」が残っている。それを見て、空=天と地を区別していた映像のである。
菊池さんたちはそうでなかった。
原爆により天と地が一つになって襲って来ていた。
そこには、どこが空で、どこが地上どころではなかったのである。
知らず知らずの内にアメリカが投下し、撮影した「上からの映像」が、私たちに染みこんで「下にいた人々から見た映像」を消去していた。
それをやさしく払拭し、「下からの映像」で、人々の苦しみ悲惨を現したのが、菊池さんの絵である。
私は、どんなに批判されようとも、批判を受けてたってこの菊池さんの絵をカラー印刷して残そうという勇気が出てきた、今の日のように思い出される。