手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」と言い切る京都府幹部が交渉を打ち切り席を立った後。
会場を整理する京都府職員に対して、ろうあ者は、ただ単に「ご苦労さんです」と手話で挨拶して京都府職員と帰路についたわけではない。
会場整理は私の仕事ですから、という京都府職員にろうあ協会全員は、机や椅子を片付け会場を清掃した。
それになぁ、あの人
交渉の記録をとりながら涙を
あの人(京都府職員)も私たちも働いていることは一緒。
一人で後片付けすると深夜になる。
みんなも早く帰りたい、という気持ちは同じだけれどみんなで協力して会場整理すればあの人(京都府職員)も一緒に帰れるやん。
「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」と言い切る京都府幹部の話と憤慨と混乱があったけれをすべての京都府職員がそうだと決めつけたり、思い込まないで、ともに働く仲間として考えるろうあ者の人々から学んだことは多い。
それになぁ、あの人(京都府職員)交渉の記録をとりながら涙をポトリ、ポトリと落としてはった。
私らの気持ちが、充分わかってくれてはるのや!!そうやそうや、という話が出てきた。
障害者が産まれないよう、にするのが基本
京都ろうあ協会の役員は
深夜を越す論議の結果一つの行動を
ろうあ協会役員は、交渉の中で「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」という京都府幹部の重大発言をめぐり、その後京都ろうあ協会の役員はろうあセンターに集まり深夜を越す論議が続き、一つの行動をすることで一致した。
731部隊の残虐行為を行った医師たちが
戦後の医学界で権威を持って大きな影響を
「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」とする考えは、京都の医者の考えにもあった。
障害者が病院に行ってもそれだけで、けんもほろろに言われることもあったし、障害者の状況を改善する治療などはまったく受け入れないこともしばしばあった。
この背景には、戦後の京都の医療関係者に近年明らかにされつつある中国における731部隊の関係者の大きな影響があったと推定される。
人体実験などの残虐行為で
医学界の権威に
満州第七三一部隊は、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関、そのために人体実験や生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。
人体実験を主導した「医学者たち」は、終戦直後ソ連の中国東北部への侵攻前に、特別列車でいち早く日本に帰国して、戦後、その行為について罪に問われることはなく医学界に君臨した。
特に京都は、その中心メンバーが多くいたとされている。
アメリカは人体実験のデータ提供と引き替えに、隊員の責任を免除した。
障害者は生きる価値がない
このことへの果敢な闘いの
準備をしたろうあ協会
だから京都のすべての医者ではないが、「障害者は生きる価値がない」として障害者抹殺思想を持つ医学研究者や医者がいたとも言える。
これへの果敢な闘いがろうあ協会にも要求されていたのである。
このことは、過去のことではなく今もあると言わざるを得ない。