手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
京都ろうあセンターの改装。今日のような空調が出来る高価な改造は望めべくもなかった。
だが、みんなは大満足だった。
しばらくすると京都ろうあセンターの近隣の家々から苦情がきた。特に隣の家からは数知れぬほど苦情が来た。
うるさすぎて、生活がとても出来ないという話。
ろうあ者にそのことを手話通訳すると、へーそうなん、うるさいのかなあ、という感想だった。
机をたたいたり バンバン音を
たててその振動で
自由に使えるろうあセンター。
みんなは気兼ねなく使用した。が、話し合いがエスカレートするとついつい机をたたいたり、バンバン音を立ててその振動でみんなを自分の方に振り向かせようとする。
それは、会議室だけではなく、食堂とはとても呼べない小さなスペースでもそうだった。
朝昼、夜、夜中までしばしばあった。
近隣の人々は、最初は穏やかであったが、次第に怒り満身の姿で抗議に来た。
ろうあ者の人々は、その形相を見て怒っているのは解るが、なぜそこまで怒るのかという表情だった。
連日、抗議が続いた。
考えれば無理もない。
旧ライトハウスの時代には、視覚障害・盲人の人々は聞こえるので大きな音をたてることはなかったし、話し声でも外に声が聞こえることをコントロールしていた。
そのため京都ろうあセンター周辺の人々の住環境は、きわめて静かだったのだがそれが一変したのである。
ろうあ者に対する偏見や無理解だと無視し
手話通訳者にも不信の目が向けられた
ろうあ者やろうあ協会の人々は、日増しに強まる抗議に対して、ろうあ者に対する偏見や無理解がそうしているのだと決めつけて無視したらいい、という人も出ていた。
終いには、手話通訳する手話通訳者が同じ偏見を持っているからだと言い出し、手話通訳を無視したり、手話通訳を拒否するようになった。
自分たちが自由に、何の気兼ねもなく使える京都ろうあセンター。
それに規制を加えるのか、と怒りが手話通訳者に向けられた。
このようなときは、複数の手話通訳者の存在がどうしても必要だった。
拒否した手話通訳者の代わりに来た手話通訳者は、抗議に来た近隣の人々の話を同じように手話通訳した。近隣の人々が、うるさくて困っている、と。
そこまでもうるさいと実感は
出来ないがみんなで努力しよう
手話通訳が勝手な思いこみで手話通訳していることではないし、近隣の人々の抗議は解るがそこまでもうるさいと実感出来ないが、みんなで努力しようということに話はまとまった。
数十年後、たまたま他の用件で話をしていると、その人がよく抗議にこられた方と解って、お互いに驚き当時の話になった。
それなりの
理解をしていたつもりであったが
感情を抑えようにも聞き入れてもらえず
当時は、うるさくて寝れないどころではなかった、しかも病人を抱えて何とか、静かに、と思い話をしたのに、聞き入れてもらえずほとほと困りはてた。
感情を抑えようにも聞き入れてもらえず次第に感情的になった、と話されてその後の改善を喜んでおられた。
盲人の方々とろうあ者の方々とは、状況が違うことは充分承知していて、それなりの理解をしていたつもりであったが耐えきれないドンドン、ガンガンの音だったとしみじみ語られた。
京都ろうあセンターが出来て喜んでいたが、近隣住民とその喜びを共にし、よりよき住環境を創る視点が不足していたと思うと同時にそれでも理解を失わないでいた近隣の人々に感謝した。