http://sakukorox.hatenablog.com/entry/2017/12/08/211007
手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
京都ろうあセンターは、多くの人々によって支えられ、それが基礎となって京都の聴覚障害者関連施設と聴覚障害者・ろうあ者の人々がある意味で過去のような苦労をする事もなく利用出来るようになっている。
このことは、1969年頃から考えると信じられない飛躍である。が、時々、あの時、ああでなかったら今はどうなっていたのか、と考え込む時がある。
ひとり一人の力はほんの小さな力だった
みんなも同じ苦労をすれば、当時の事が解るという意味ではない。
連日続く困難や難問や貧困の中で、ひとりが、また一人が、またひとりが、そしてまた一人が、と自分の置かれている状況の中で精一杯力を寄せ合う事の大切さ、その力を寄せ合うことがごまかしや懐柔を撥ね除け、大きな力を形成していった。
ひとり一人の力はほんの小さな力だったかもしれないが。
そのほんの小さな力が寄せ合うと巨大なうねりを創り出していく。産み出していく。
もうこの世におられないろうあ者の人々のあの真剣な眼差しに応えようとした京都に人々に感謝を捧げるばかりである。
ろうあ者の給与と比較にならない
高かったにも関わらず
思えば、1969年4月、すぐにろうあ協会の人々から、ろうあセンターの職員の健康保険や失業保険などの手続きをするように言われた。
給与体系は、京都府職員と同様。このことだけでも当時のろうあ者の給与と比較にならないぐらい高かった。
それにも関わらず職員としての各種諸制度を整えるように言われてその手続きをした。
その後、40年余もして厚生年金未払いであると社会保険関連担当が言いだし、年金受給が減額されたが、これは認めるわけに行かないので不服申請した。
ところが、社会保険庁では未払いになっているの一点張りだった。
厚生年金未払い問題と
ろうあ者の人々の想い
手続きをしたK社会保険所の手続きの煩雑さを想い出して、その故を説明したがそのことの証明を申請者がすべきであると社会保険関連担当が平然と言いだした。
なけなしの予算の中で社会保険・厚生年金等の諸費用を負担してくれた京都府ろうあ協会のみなさんの顔を思い浮かべて、未払い問題を了承しなかった。
証明すべき当事者が、本末転倒して受給者にその責任が転嫁される傾向は、厚生年金問題だけではなかった。
労災で休職していた手話通訳者へ仕事も
していないのになぜ給料が受け取れるのか
A県で手話通訳者が 頸腕障害になった。労働基準監督署に労災申請をしたが中央(東京)預かりとなるなど、労災を認めない、とすることに労災担当者は動いた。
このことで屈辱的な想いを多くの人がしたが、休職していた手話通訳者に残念ながらろうあ協会の一部の人から、仕事もしていないのになぜ給料が受け取れるのか、という声が出た。
それをわざわざ休職中の手話通訳者に「情報提供」した人がいる。
労災保険から支給される金額は、100%ではないがろうあ協会の負担はなかった。
だが、休んでいてなぜ給与が受け取れるのか、手話通訳者を早く辞めさせろ、と言う人々に状況を説明したが、労災保険の複雑な仕組みもあって理解を得るために多くの時間が必要であった。
休んでいてなぜ給与が受け取れるのか、手話通訳者を早く辞めさせろ、と言う人々も、労働災害に遭うと労災保険が適用される事も知って欲しかったが、今自分に降りかかってこないので関心は薄かった。
京都ろうあセンターを創りあげた源泉
1969年、1970年、京都のろうあ者やろうあ協会の人々の志と懐の深さを改めて実感させられたが、あの時代。苦しくもあり哀しくもあったが人間性で満ち溢れていた。
これが、京都ろうあセンターを創りあげた源泉だったのである。
(了)
京都ろうあセンタの事業等は、
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