手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承
ろう学校では手話を全面的に禁止
と思い込んでいる人が多いが
故藤井進先生が、1952(昭和27)年、京都府教育委員会の採用試験に合格して、学校長の面接を受け、 教師二人、寄宿舎寮母一人の三人が採用され、その時、ろう学校長から「手話を覚えて欲しい」といわれたことについて、ろう学校では手話が禁止されていたはずだからそういうことを京都ろう学校長が言うはずがない、とか、京都だからそうなんだろうとか、ろう学校では手話を全面的に禁止していたかのように思い込んでコメントされる人が多い。
だが、ろう学校長が3人の教師に「手話を覚えて欲しい」と言ったことは事実として報告された、
ろう学校では手話が禁止されていた
と思い込むことが理解出来ない
藤井進先生が話されて以降、多くの人々がろう学校では手話が禁止されていたと断言するので、再度確かめてみた。
が、ろう学校長が3人の教師に「手話を覚えて欲しい」と言った、ことは間違いがないという話だった。
逆に、なぜ多くの人が、多くの人々がろう学校では手話が禁止されていた、と思い込んでいるのか、その頑なさが理解出来ないとも言われた。
たしかに京都ろう学校では口話法の流れが主流になりつつあったが、かといってそれが教育制度として決められたものではないし、これでないとダメだと教育委員会や校長が伝達されたことは一度もない。
指導主事になって
長く教育行政の仕事にも関わったが
手話はダメだ、口話でないといけない
とする公的な指示や文章は一切ない
さらに、1965(昭和40)年11月18日京都府立ろう学校で授業拒否事件以降京都府教育委員会の指導主事になって長く教育行政の仕事にも関わってきたが、手話はダメだ、口話でないといけけない、とする公的な指示や文章は一切なかったし、教育委員会内部でもそのようなことが話されたことはない。
口話でやりなさい、と強いられることはなかったし、教育委員会がそのような指導をろう学校にする法的本拠は一切ない。
全国的にそうでした。
口話でやりなさいなどのことを指示すれば、教育基本法10条(当時)違反になる。ことは明らかでしたから。
盲のほうが聾より上とする考え
京都盲学校は戦時中、京都府庁前から移転された。
だが京都聾学校は移転されずにそのままで放置。
結果的に閉鎖。
多くの生徒が、聾学校で学べないという残念な事態になったが、当時の状況を考えても、盲と聾、に対する国や行政の考えが明るみになるでしょう。
盲のほうが聾より上。
この歴然とした障害者間を離反し、差別する考えはあった。
手話でほほえみながら
帰宅する子どもたちと
‥‥‥戦後、御室の山ー御室仁和寺の裏に京都聾学校ができそのときに私が赴任したのです。
その時初めて目にしたのが子どもたちの姿でした。
手話でほほえみながら御室の山から降りてくる子どもたち。
これが聾学校の子どもたちなんだなと。
それからその子どもたちともう30何年以上の付き合いをしている。
手話を覚えたことは
今でもよかったと思い続けている
いまでも、よかったなと思いますのは、その手話を覚えたということでした。
当時は口話法というものが教師の間で次第に強く叫ばれていましたが。‥‥‥
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参照 ろう学校で手話が全面的禁止ではななかった!!
http://sakukorox.hatenablog.com/entry/2017/12/11/200101
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