En solidaridad con Takahiko Mochida comentario 訳 1/12/2019 京都手話通訳問題研究会会長持田隆彦 ねっとわーく京都
漢字に多くの影響を受けた日本の手話
漢字は古代中国で考えられアジアの多くの国に影響を与え、日本でも使われている。漢字は、世界四大文明のひとつである黄河文明に遡ってその表記が研究されているのは愕く。
従って、漢字一文字が組み合わさって無数の意味と表現がなされるので非常に複雑だとおもえる。
その漢字に多くの影響を受けた日本の手話はとても興味深い。
だがしかし、その手話が「否定」する人々がいることはとても悲しい。
情景と心情をも現す「帰るという手話」
日本の手話で「帰る」という手話がある。
「帰」は以前は、「歸」と書かれていて「おくるの意味」があるとされている。
「見送る」という意味だろうか。
日本の手話では、帰るという手話は、眼から次第に人々が遠ざかる表し方をしていると聞いた。
見送る人から去って行く人。
その人の姿が次第に次第に小さくなって消えていく情景を描いていると教えていただいた。
時には、お酒を酌み交わした友が無事帰るようにと願っていると、真っ直ぐ姿が消えるのではなくうねうねと目の前を蛇行して消えていく「帰る」とも現せると聞いてとても感動した。
見送ってもその人が見えなくなるまで見つめる
帰る情景が見事に手話で表現されるからである。
帰る人を見送ってもその人が見えなくなるまで見つめることが出来なくなっているが、世界共通の表現と思える。
人の姿が小さくなって見えなくなる情景は、民族の踊りや言葉のなかでしばしば使われている。
少し説明すれば、共通性を見いだせるものだ。ところが、違いを強調する人が多い。
どこどこの県のどこでは、このような手話をするが、これでは他の府県で通じないとか。
たしかに違うということになるかも知れないが、デハ、ソノ、シュワ、は、ナゼ、ソウスルノ?と聞けば他の地域と共通する意味合いを見いだす。
違うと言うことは、否定で使われているようであるがそうではないだろう。