communion of mind with mind
truth
「対(つい)の手話」二つそろって一組をなすす手話。
この「対の手話」はとても大きな意味と多彩なコミュニケーションを形成する。
「対の手話」は、両手を使うため必然的に「対の手話」になったとは考えられない。
すでに記述したように
一致の致は、いたる、ことをつたえる、まねく、ゆきつく、などの意味があり、それが「二つ以上のものが、くいちがいなく一つになること。心を同じくすること。」などの意味を持っているよう。」とも考えられるが、その源流を押さえながら「巧みに手話」で表現されたことを充分理解する必要がある。
「対の手話」の方向と位置
「あれ」と「それ」が、人差し指と親指とつけることで「一致」「同じ」「一緒」となる。
「あなた」と「私」の意見が一致。
「同じ考えね」とも意味する。
人の場合で方向性と「対の手話としての同じ」を考えてみる。
一人称の場合は、その人いる方向に右手なり、左手で「同じ」の手話をし、自分の身に寄せた手で「同じ」をすると「あなたと私は同じ(考え)」となる。
では、たくさんの人と自分の場合は、
たくさんの人がいる方向に右手なり、左手で「ぐるりと回して同じ」の手話をし、自分の身に寄せた手で「同じ」をすると「みなさんと私は同じ(考え)」となる。
さらに、一人称の場合は、その人いる方向に右手なり、左手で「同じ」の手話をし、自分の身に寄せた手で「同じ」の動きをゆっくりしたり、人差し指と親指をつけるようで つけないようにしながら つけると 「あなたと私は同じだけれでも‥‥‥同じ(考え)」という表現がなされ細やかな迷いと一致を表現出来るのである。
その逆の場合でも、たくさんの人との関係でも「指先の動きと方向」で「一致」でも「一致に至る迷い、戸惑いなどなど微妙な心情」を表現出来るのである。
その表現に限界はないだろう。
手話の微妙な手指の動きから想いを見出さないで、すべて手話では「同じ」と断定することは、人間の心情をも見ない画一的な捉え方となる。