communion of mind with mind
truth
一致、同じ、そうです、など多様に使われた手話には、制限を解き放つ玄理があるように思えた。
手話 同じは戦前から使われてきた手話である。
そのため手話表現の源流となった漢字表記を考えてみた。
一致の致は、いたる、ことをつたえる、まねく、ゆきつく、などの意味があり、それが「二つ以上のものが、くいちがいなく一つになること。心を同じくすること。」などの意味を持っているよう。
この漢字表記に籠められた意味を手話で表現した人々への尊敬の念は消えることがない。
ここで注目したのは、「二つ以上のものが、くいちがいなく一つになること。心を同じくすること。」の二つ以上のものの表現である。
手話では、左右の手で同じ動きを表現するが、それは「二つの動き」をきちんと踏襲していることに充分留意しなければならないと思われる。
右手と左手の「動き」は「同じ」であるが、「同じ動き」が「二つ」あることで「一つになる」手話なのである。
ここには、昔の手話と簡単に押し流すことが出来ない深い意味を踏まえた緻密に熟考し尽くされた手話として形成されてきたと考える。
戦前から伝えられた手話には、このような汲みつくせない意味と真理があるように思えるが、今だ、捉えきれていないことに無念である。
右手と左手の「動き」は「同じ」であるが、「同じ動き」が「二つ」あることで「一つになる」手話の「二つ」
「対」は、数え切れない豊富な表現を産みだしている。
手話の玄理・「対(つい)の手話」を今も考えている。
手話ではこの「対になる手話」は、手話の玄理なのだろう。