communion of mind with mind
truth
手話の微妙な手指の動きから想いを見出さないで、すべて手話では「同じ」と断定することは、人間の心情をも見ない画一的な捉え方となる、と述べた。
この場合、手話で表す場合に「表情」とくに「眼が語る」ことを加味しなければならない。
掲載したイラストでをよく見て、「同じ」の表現をする人の顔の「表情」を見るならば、「おなじ」という「はなしことば」や「文字」だけで済まされないものがあるとみるべきだろう。
「対の手話」と表情
眼が語ることで意味が変幻自在
「同じの手話のイラスト」は、もともとろうあ協会の日本画家が筆で描いたとされている。
この毛筆は、凸版印刷にされたが、手指はもちろん表情の微妙なタッチが表されている。
すなわち、日常的に手話を中心とする会話を重ねてきた書き手が手話の心情を加味して書き込んでいるとも思える。
このイラストを描いた本人と何度も対話した手話通訳者は「微細な表現を見事に現していると知って置いて欲しい」との伝承も残っている。
人差し指と親指をあわせようとする「指先」に目が向いているのではなく、その少し先を見ようとしている表情から、少し物憂げなようで、考え込むようで、同じ先を考えているようでもあり、さまざまに捉えることが出来る。
これらは、手話が単なる手指の動きだけでなく、こころ・精神・思考をも投影したものであることを語っている。
手話の一動作だけで、判断するのではなく、その前後の表現の中で「こころ・精神・思考をも投影した」意味合いを把握出来るのである。
「対の手話」である「同じの手話」を「はなしことば」や「文字」だけで済まされないものがあると今一度、噛みしめる時代をむかえているだろう。