communion of mind with mind
お尻で止めて、握り拳を当てて、「パー」とした歯科医を加悦さん(仮名)さんが、褒め称え、本当の手話なんだと何度も語り、多くのろうあ者に話し続けたことが心に残った。
医者にかかるから手話通訳を、と頼まれたときは、長時間ろうあ者の人と待ち続けるのはあたりまえだった。
時には、午前8時から延々と待ち続けて終わるのは午後4時であったことも。
その間、医者との話は数秒。
ろうあ者は尋ねるまもなく診察室を追い出されることも少なからずあった。
待たしてごめんね、と謝るろうあ者の人にいつも、気にしないで、と言う。
待ち時間が長ければ長いほどろうあ者の人との話は弾み、多くの手話や表現方法も知った。
ともかく、病院は医者に聞くことは叶わないことが多かった。
だが歯科医は、
加悦さん(仮名)さんが「差し歯」が抜けて体内に残っていることの不安を専門用語ではなく、口の中から食道、胃、腸、肛門から出るまでの「差し歯の動き」を自分の身体を示して差し歯の動きをきちんと指さしながら「見てわかるよう」に教えてくれ。歯が身体の中でうねりながら体外に出る動きで示してくれたのである。
見ていた加悦さん(仮名)さんは「差し歯」の体内を「旅する」様子を知ったから感動が大きかったのだと思える。
あれからずいぶん月日が流れ、インフォームドコンセント【informed consent】があたりまえのようになり、医者からの説明は多くなった。
だが、手話通訳にすべて任せるのではなく、歯科医として可能な限りの説明をしたことに今一度、深く考える必要があるのではないかと思い続けている。
たばこを買おうとしたときのBさんのこと、差し歯のことを聞いた加悦さん(仮名)さんへの歯科医の「説明」。
何もかも手話通訳する、
何もかも手話通訳に委ねる、
のではない出来うる可能な限りの「対話」をすすめる人間としてのあたりまえなことが今、生き続けているのだろうか。
抜けた差し歯を口の中から食道、胃、腸、肛門から出るまでのを自分の身体を示して歯科医の行為を、素晴らしい手話と言い切る加悦さん(仮名)さんの手話に対する想いを噛みしめて。