communion of mind with mind
Bさんは、沈黙の行動で「手話通訳は、何から何まで全てをろうあ者のためにすることではなく」と示していたことはあとで知った。
Bさんは、「自分で出来ることは自分でするから」ということで、手話通訳を頼まないこともあることも解ってきた。
手話通訳は、何から何まで全てろうあ者のためにするものではなく、ろうあ者の「要求」と必要に応じてすべきものであり、それを押しのけてまでするとろうあ者の主体性や気持ちを踏みにじることになる、とBさんは私に知らせたようであった。
だが、「このことの応用」となると非常に難しく、微妙な問題も生じた。
手話通訳は、言われたことだけを通訳すればいい、ろうあ者の言いたいことを通訳すればいい、いやどちらの側の通訳もするべきだ、などなどさまざまに言われ続けてきた。
ある会社で働くろうあ者の猪口(仮名)さんの場合もそうだった。
会社は、猪口(仮名)さんを露骨に辞めさせようとしてきた。
手話通訳をしていても、会社の代表者は聞くに堪えないような罵声を浴びせかけてきた。だが、表情はとても和やか。
猪口(仮名)さんは、話の途中で手話通訳を罵声のように勝手にねじ曲げているのではないかと批判の矛先を手話通訳者の向けてきて激怒した。
会社の代表者は、ますます和やかな表情をした。
言われたことだけを通訳すればいい、とされてもそうはいかない場面が創り出されいた。が、猪口(仮名)さんへ言い訳をすることなく手話通訳をした。
手話通訳が終わって、しばらくして猪口(仮名)さんから喫茶店に呼び出された。
ねじ曲げて手話通訳をしているのではないか、と猪口(仮名)さんは厳しく言いつづけた。
そうではない、と言っても受け入れてはくれなかったが、1時間以上厳しく言いつづけた猪口(仮名)さんはぽつりと
「会社は俺を辞めさせたくて手話通訳を呼んだんだろう。」
と言いはじめた。
それまでの辛かった職場の経験を山のように言った末に猪口(仮名)さんは、
「君のおかげで今日、会社に辞めさせられなくて済んだんだろうな」
と言い珈琲をご馳走してくれた。
後々、猪口(仮名)さんが、あの手話通訳者は信頼出来る、と触れ回っていることを知った。
手話通訳は、ろうあ者との信頼関係を基礎を前提としなければならない、手話通訳の時は手話通訳は言い分けをしたり、自分なりの解釈で言うと混乱を招き、信頼を損ねる。
だが、手話通訳を終えたあとで求めらられれば意見交換をすることは大切な事だと考えた。
そして、手話通訳は、言われたことだけを通訳すればいい、ろうあ者の言いたいことを通訳すればいい、いやどちらの側の通訳もするべきだ、などなどさまざまに言わることがともすれば「机上の空論」に終止しがちではないかとも考えた。