手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

原子爆弾が炸裂する瞬間の「手話」 と原爆が炸裂した真下で洗濯していたひと

  communion of mind with mind

 

  平和公園を後にして下り坂を歩き、原爆投下後アヤキさんたちが逃げ込んだ穴」を見つけて、川沿いにアヤキさんと手話通訳とカメラマンは、長崎市松山町171番地にある落下中心地へとむかった。

 

 三人とも足取りはとても重くなりとても長い時間が過ぎ去ったような気持ちになっていた。

 

 ようやく「アメリカのB29から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂落下中心地標柱と黒御影石の碑」にたどり着いた。

 

 そこに年老いた婦人がひとりいたが、三人は腰かけて話をした。

 

 アヤキさんは、長崎の原子爆弾はこの上空で炸裂したと両手がちぎれるほど上に伸ばし、伸ばして、原子爆弾が炸裂する瞬間を「手話」で表現した。

 

 手話と書いたが、手話と言うより頭上遙か上で炸裂した様子を身振りと表情で具現し続けた、と言ってもいいだろう。

 

 長崎の爆心地近くで被爆したろうあ者の手話は、もくもくとたち昇る「きのこ雲」では決してなかった。

 

 頭上はるか上で炸裂し広がるさまざまな色と爆風。飛ばされた自分が気がついた=生き残った。

 そこからはじまる地獄の光景を「手話を超越した手話」で表現されていた。

 

 座り込んでいるのにアヤキさんの原爆投下と爆発、爆風の手話は、言葉に出来ないほどの情景をありありと突き付けた。

 それは、だれもが観せられていたいわゆる「写真で見る原爆投下」の写真とはまったく異なったものであった。
 アメリカのB29から投下された原子爆弾直後のメリカ軍が撮った写真とはまったく異なった、表現であった。

 

 それまで原爆を投下した側からの写真が頭の中にこびりついているカメラマンも呆然として魅入っていた。音声言語で手話通訳しなくても彼にはすべての情景が浮かんでいたからである。

 

 と、少し離れた所で投下碑に水を置いていた年老いた婦人が、よろよろと近づいてきた。

 

「ようここに来ていただいた‥‥‥みなさんは、むこうの平和公園に原爆が落とされて爆発したと思われているが、ここ、この真上で爆発したんです。その時、私はそこの川で洗濯していたんです。」

 

と話された。

 

 三人は、竦んでしまった。

 

 原爆が上空で爆発したその地点のすぐそばで年老いた婦人が、洗濯していたとは、と。