手話通訳制度調査検討委員会報告書(1985年5月20日) の問題点とその後の手話通訳制度に与えた影響 (2)
手話通訳制度調査検討委員会の発足に至る経過
あらゆる分野に「○○○○士」という資格、認定制度が作られている今日なら当時の国・厚生省の意図と焦りが理解できるが、手話通訳者関係でその事を知りうる立場の人々は当時はいなかった。
国の意図を覆す最初の動きとして
どうしても封じ込めておかなければならない渦のなかで
この時期から国・厚生省は、公的責任と援助が必要な教育・福祉・医療の分野に「大がかりな諸制度の改悪」計画とその実施を図り、教育・福祉・医療の国家予算を大幅に削減しようとしていたのである。
だから、「アイラブパンフ」運動は、国の意図を覆す最初の動きとして、国としては絶対的な権力を振るってでも封じ込めておかなければならない必須問題だったのである。
結果的に厚生省は厚生省が直接検討するのではなく手話通訳制度化検討を全日本ろうあ連盟に委託。
厚生省の元課長を委員長に「手話通訳制度調査検討委員会」が1982(昭和57)年に発足。1985(昭和60)年に「手話通訳制度調査検討報告書」(以下 報告書)が発表されるに至った。
政府の思惑でつくされた「新しい手話」
ろうあ者の人々の創造された手話は否定されていくが
新しい手話と手話の標準化を指示した1981年の政府の意図と手話通訳制度化
手話通訳の問題をめぐって重要で見逃せない問題についてここで述べておきたい。
1981(昭和56)年3月19日の第94回国会衆議院社会労働委員会で、ろうあ者のコミュニケーションの手話の数が質問された。
このとき政府は、
「手話の数は、日本聾唖連盟等関係者の調査によりまして、約2700語というふうに理解をしております。」
と答え、健常者が使用している用語というのは通常3万語程度といわれている。これに比べると手話の数はきわめて少ない。
この手話の数をもっとふやして差し上げなければならない。
手話の中でもいわゆる方言というような、いわば標準化が十分行われていない、まず手話の数をふやす、同時に標準化を図っていくということが基本的施策ではないか。という質問を呼び込ませて答弁する。
政府は、
「全く御指摘のとおりとに私どもも考える次第でございます。」と答え1979(昭和54)年から日本聾唖連盟に委託費を交付し、新しい手話用語の研究開発、それから手話用語の標準化、こういった委託事業をお願いしている。
そして、1979(昭和54)年からの2年間で約2000語に約700語が標準手話として開発され、当面5000語程度に持っていきたい。
方言の標準化、微妙なニュアンスの表現ということについて工夫をしていかなければならない点等々があるとしている。
手話の数のごまかしとろうあ者の手話への「圧殺の歴史」
ところが、この国会答弁の中で、政府が公表した手話が約2000語。この根拠は全く明らかにされていない。
約2000の手話。
ということと約2000の語。と言うのでは非常な違いがあるだろう。
言葉が約2000でろうあ者が会話しているとすれば、非常に限られた狭義の会話しか出来ていないような印象を与えてしまうだろう。
たとえ約200の言葉があっても言語として成立し、学術的にも国際的にもその民族の言語として認められていることもある。
ウソで固められた手話2000の背景と利益
ところが約2000の手話があるというならば、状況と理解も大きく異なってくる。
1960年代に京都でろうあ者が使われていた日常会話を記録し、手話学習に使用されたポケットサイズのテキストがある。
当時、手話の図を印刷するためには、ひとつひとつの図を「製版画」として作成し、それを組み合わせなければならなかったため今日の価格で計算すると約200万円程の費用がかかったためテキストは一回のテキスト発行で終わってしまった。
このテキストは、京都府立身体障害者福祉センターろうあ更正課で発行され、その後京都ろうあセンターに引き継がれ「手話の手引き ーろうあ者との会話のためにーが発行された。
国は手話の調査もしないで決めつけた理由
先進国の手話調査と手話評価の根底的違い
このテキストには、手話が210収録されている。そうなると210×46(都道府県数)=9660という手話の数が引きだされられる。
ほんの少しでも国が調査しても、単純調査調査しても手話が約2000であるという数値は全く出てこないのである。
それ以上の手話の数が出てくる、数万の手話が存在していたことは明るみになる。
だが、日本政府は北欧の国々のようなことはしなかった。
従って、思いつきでも出てこない約2000という数値は、意図的、思いつき、と批判されても国は何ら答えられない数値だったのである。残念ながらこのことは日本中に知らされていなかった。また批判すべき団体が政府に取り込まれて自由に批判と訂正を迫ることが出来なかったと言る。悲惨な時期を迎えたのである。
国の考えには、ろうあ者の手話に対する尊敬の念より「侮蔑」の思想があったのではないかと思われるほど決めつけがなされた。