手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

陽の目を見なかったかも知れない  「原爆を見た聞こえない人々」

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 1994年12月末に長崎を訪れたと記憶している。

 

   もう22年余の月日が去った。

    

勇気ある証言を後々まで残しておきたい

 

 手話通訳問題研究誌に連載した長崎のろうあ者の被爆体験をぜひとも日本のすべての人々に知らせるために連載をまとめて出版したいという思いに駆られての私の「個人的」行動だった。

 

 来年、1995年は、戦後50年を迎える。

 

 この期にぜひ、長崎で被爆した聞こえない人々が居たこと。

 

 被爆という悲惨で残虐な行為は長崎のどのような人々の上にも降り注がれたこと。

 

 それだけではなく、「戦後」という言葉で過去の過ぎ去った歴史かのように語られる長崎の被爆は、終わっていないばかりか今もなお存在していること。

 

 それを勇気を持ってろうあ者の人々が全通研の仲間と手を取り合って証言している事実。

 

 この勇気ある証言を後々まで残しておきたい。

 

 言い切れぬ想いをずっしり抱え込んでのひさかたの長崎への訪れだった。

 

   あの日最後の打ち合わせをしなければ
     「原爆を見た聞こえない人々」

   は市販されることはなかつた

 

 あの日、最後の打ち合わせをしなければ、「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)は、市販されることはなかっただろう。

 

 すでに多くのねがいを籠めて出版されていた「手よ語れ」は、出版社が倒産。

 

 それ以降、いわゆる書店を通じて聞こえない人々の被爆体験集を手にする機会が失われていた。

 

 全国の人々にいつかの機会に眼にふれて貰えることすらも出来ないでいた。

 

 私はけいわんという病気に冒されて、いつかよくなったら……いつかよくなったら……という想いだけが残り日々が去り行き、気がつけば全通研編集部の仕事を退いた以上は全通研として出版を企画する立場ではなかった。

 

 今だから書けるが、当時の全通研の主だった中心メンバーにこの出版計画を幾度となく執拗に持ちかけた。

 

 しかし、バランス論や必要性、全国の仲間がもとめているかどうか疑問だなどなどの意見が出されて出版の話で話はまったく進みもしなかった。

 

 苛立ちを感じながら、どうすることも出来ない身体を憎みつつ、ひたすら横たわり、回る天井を睨み健康回復を待つしかなかった。

 

     赤字出版は見えていたが

         最後の望みを託した

 

 出版の最後の望みを託したのは、文理閣社長の黒川さんだった。

 

 赤字出版は見えていた。

 必死な思いで、私は黒川さんに頼み込んだ。

 

 手話通訳問題研究誌に連載していた静岡の高橋節先生の文を校正途中で病気で倒れた私。

 

 サインペンが赤に、ブルーに黄色にと縦横に書き込み、混戦する私の校正紙を嫌とも言わずに引き継いで「聞こえない子らのこと」を黒川さんは出版してくれるかも知れない。

 

 青息吐息の私は寝たきりの姿で電話した。

 

 黒川さんは協力を約束してくれた。

 

 今だから書けるが、ジリ貧の出版業界で小出版社の最たる文理閣がよくぞ引き受けてくれたものだと思い、感謝に堪えない。

 

     長崎の仲間から断られたらもう
  出版は出来ないだろうそんな想い

 

 それから私の苦悩の日々がはじまった。

 

 手話通訳問題研究誌に掲載した長崎のろうあ者の被爆体験の証言をもう一度読み返し、訂正し校正する。

 

 校正紙にサインペンを走らす私は、書き込みを入れるその度、激烈な痛みを感じ倒れた。

 

 これ以上の痛みと苦しみはないという這々の体で最終校正紙を持って長崎を訪ねた。

 

 あのときは私の都合で鹿児島空港から爆発した普賢岳を見下ろしながら長崎空港へ向かった。

 

 1994年の暮れのことだった。

 

 ここで長崎の仲間から断られたらもう出版は出来ないだろう、そんな想いがずーと私の胸に食らい付いて離れてくれなかった。