手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃のことから}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
頭の中で考えるとと
実際に経験することとの間で差が生じ
それをどう理解するかで
手話通訳者の方向が決まる
「聞こえなかったら困るだろう」とただ頭の中で考えると、実際に経験することとの間で差が生じ、それをどう理解するか、で手話通訳者の方向が決まるようにも思う。
私が手話通訳で経験した最初の思い出では、京都ろうあセンターに電話を設置することであった。
社団法人京都府ろうあ協会の財産となる電話。債券を購入して、電話を引いてもらう?という時代だった。
京都ろうあセンター職員の大矢さん(現淡路ふくろうの郷 施設長)と一緒にろうあセンターの玄関から自転車に乗り、電電公社(当時)に向かった。
大矢さんは、電電公社の場所を知っているので先に走り、私があとについて行くことになった。
大矢さんは、当時流行のサイクリング車。
スピードをどんどんあげる。
電電公社までの近道は、紙屋川(下流は天神川と呼ばれる。)が濁流してつくった谷間を下り、上らなければならなかった。
私は、中古自転車に乗っていたため距離がどんどん開いて行く。
坂道、登り道を必死になって自転車をこいだがそれでも追いつけず、思わず「大矢さんさん待ってくれ!!」「速すぎる!」「止まって!!」と叫んでしまった。
叫んでしまってから
叫んでも聞こえないのだ
と思い出して
叫んでしまってから、叫んでも大矢さんは(当時補聴器を掛けていたが)聞こえないのだ、ということを思い出した。
困った見失う、どうしよう、電電公社に行けそうにない、電話を引くややこしい手話通訳をしなければならないのに、と思っても、「大矢さんさん待ってくれ!!」「速すぎる!」「止まって!!」と叫んだことを「伝えるのはただひとつの方法」のみ。
大矢さんに追いつくしかなかった。
汗をだらだら流しペダルを必死になってこいでやっと大矢さんに追いついた、と思ったら電電公社の前だった。
あの時を思い出す度に、今では簡単だけれど、どうすればよかったのかと苦しむ。