手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
さて、再び京都ろうあセンターが出来た1969年に戻って考えてみる。
「もの言えん人をつかまえたのでたのんます」
突然今は無くなったN警察署から電話があったのは1969度の秋の頃だったと思う。
まだまだ未熟で経験不足だったがは、N警察署を訪れた。
二人のろうあ者がしょんぼりと
多くの警察官がいるのになぜか静かな警察署の一階の片すみに、年老いた二人のろうあ者Fさんと愛する人A子さんがしょんぼりと座っていた。
しわが何重にも重なり、ふるぼけた帽子の間から白髪がはみでていたFさんは、私たちと視線があうと、解放されたごとくしきりに語りかけてきた。
警察官は矢継ぎ早に、
Fさんは京都で多くの店舗のある有名な老舗○○店に何度となく訪れ、店の主人に会わせろ、やれ○○店は自分とは親類であるとか、生活に困っているので援助してほしいなどなど何を言っているか分からない叫び声をあげ、手振り、身振りでしっちゅうやってくる。
特に一緒にいたAさんの叫び声は耐えきれないほど大きくて、店の客が帰るほどだったのでやむを得ず、困りはてた店の経営者は警察署に連絡した。
手話通訳している私が取り調べで
責められているような状況に
警察官はFさんの行動をしきりにたしなめ続けたが、FさんをかばうAさんの声は、私にはFさんは悪くない、店が悪いと、言っているがそれが伝わらない警察官に叫び声のように声が次第に大きくなってきた。
それにつられて警察官はついつい捜査口調になり、聞こえないFさんの手話通訳している私が取り調べで責められているような状況になった。
そこで、警察官からしばらく時間をもらいFさんになぜ○○店へ行くのかと聞くと、
「○○店は私の親類にまちがいはない。」
「自分は聞こえないから相手にされないのだ」
と言いつづけた。
AさんもしきりにFさんに同情し続けた。