手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動
全国手話通訳問題研究会結成当時の
全国手話通訳問題研究会事務局長
谷勇男氏へインタビュー
京都ライトハウスの移転と
京都ろうあセンター
ーー1968年、京都ろうあセンターが出来たのもその頃ですね。
京都ライトハウスの移転の話があって。その頃京都府庁に配属されていた向野さんがそのはなしを聞いて、オーナーの鳥居さんと話をした。
ライトハウスの鳥居さんは、了解してくれ、鳥居さんと明石さん平松さんらろうあ協会の年配の人たち(当時)と話し合ってくれた。
移転したライトハウスにろうあ会館をということは、全面賛成ではないけれど、ろうあ者の拠点が要ることは事実だった。
今まで向野さんの実家である旅館丹後屋さんばっかりに世話になっていたし、迷惑ばかりかけるしなんとかせんと、とみんなが思っていた。
旧ライトハウスをろうあ協会が使われるようになって、栖川君や大矢君が働くようになった経過がよく解らないが。その後、1969年に専任手話通訳が置かれる。
富井京都市長自ら手話通訳を置くと
京都市の職員が大慌て 前例は何もない
私は、1969年の1年間は京都市の嘱託手話通訳でした。
1970年に京都市の正職員として手話通訳をすることになる。
京都市の嘱託手話通訳の話は、1968年頃、当時の富井京都市長とろうあ協会が懇談会をした。
富井京都市長は、京都市に手話通訳を置きますと言った。市長自ら手話通訳を置くと。そのため京都市の職員が大慌て。
そんな手話通訳必要か、京都市で手話通訳が出来る人が本当にいるのか、と大騒ぎになった。
そこでどのような人が、などろうあ協会に尋ねたのではないか。
ろうあ協会が、谷勇男しかいない、と言い、1969年の4月から嘱託で手話通訳者として働くことになった。
ろうあ協会は、手話通訳を京都市に置くだけは言うが後の具体的なことは言わなかった。
初めて手話通訳を行政に
1年間かけて手話通訳の形態と中身を検討
京都市としては、訳がわからないまま市長が約束したことをどのように実行するか、戸惑いがあった。
ともかく、全国的に先例がなかった。
初めて手話通訳を行政に置く。
どのように、どのような形態でなどなど中身を考えるのに1年かかった。