手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ろうあ者成人講座で悲しい話をしているのに笑顔と笑いだけが残るとは、理解しがたいことだろう。
この悲しい話は、参加していたろうあ者すべてが共通して持っていたがゆえんに、同調し共感し、それを「みんなで乗り越えられる」という共感と感動と希望がみえたから笑顔と笑いがひろがったとも言える。
絶望の中から希望を見いだすために
絶望の中から希望を見いだした時の人々の感動はなににも替えがたいものがある。
この希望を見いだすために当時、京都府教育委員会社会教育課 Hさんは、あらゆる努力を惜しまなかった。
ろうあ者成人講座の講師にはろうあ者の要望に応えるために一流の講師、一番集まりやすい場所、そして、印刷されたろうあ者成人講座の案内を準備してくれた。
京都府教育委員会社会教育課の少ない予算の中でやり繰りしてしてくれていた。
今でこそ、印刷物は当たり前のように思われるか知れないが、ろうあ者成人講座が開かれる印刷された案内は、ろうあ者にとってはこの上もないうれしいものであった。
うれしかった印刷案内
どのようにろうあ者の手元へ
自分たちのために京都府教育委員会が、勉強できる場をつくってくれる。
「それも、こんな印刷案内もつくって」と非常にうれしかったとのこと。
ところが問題は、ろうあ者成人講座の案内をどのようにろうあ者に配るのか、ということだった。
今の京都の南部の景色を見てとうてい信じることが出来ないだろう。
南山城地域(現在の宇治市から奈良県境の木津川市までの地域)担当のKろうあ者相談員は、まずろうあ協会会員には、集会会場で配り、休んでいたろうあ者には近くのろうあ協会の会員に手渡してくれるように頼んだ。
そこまでは、わりとスムースに出来た。
しかし、それではろうあ者全員に渡したことにならない。
南山城地域全体のろうあ者に手渡さなければならない、という気持ちから行動をはじめた。
ろうあ、がいると分かると
村でどんな扱いを受けるか
Kさんは、仕事が終わってからの夜。休日。
ろうあ者がいる家を一軒一軒訪問し、ろうあ者成人講座の案内をろうあ者に配り続けた。
それは大変なことだった。
交通機関のない場所まで、歩いたり、徒歩でろうあ者の住む家を探す。
やっとたどり着いても家族かららけんもほろろの扱い。
「二度と来るな」
「ろうあ、がいると分かると村でどんな扱いを受けるか分からない。来ないでください。」
などのことは当たり前で、罵声、罵倒、物を投げかけるのはしばしばあったとのこと。
夜。恐ろしいほど暗い。