手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ろうあ者成人講座は、1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議の質問と答弁からはじまった。
自らすすんで担当したいと
社会教育課内部で申し出た人
民生労働部は、ろうあ者相談員の数と予算を増やし、京都府教育委員会は、社会教育課(当時)が窓口になって、ろうあ成人講座を各地域で開くようになった。
ろうあ者成人講座は、成人したろうあ者に引き続き学習する機会を、という目的で京都府教育委員会が開催したが講座内容はすべて地域のろうあ者の意見を充分聞いて、企画・立案して開催された。
この担当に自らすすんで担当したいと京都府教育委員会社会教育課内部で申し出た人がHさんだった。
このことはずーっと後で知ることになる。
すべての聴覚障害児者と
自分の子どものために力を
と強い決意が芽生えてきた時に
京都府議会を受けてのろうあ者成人講座の開催。京都府教育委員会ではこの講座がうまくいくかは、重大な責任が問われる、かといって、どのように企画・運営していいのかまったく見当がつかない。
その時にHさんから担当させていただきたい、と言ってきた。そのため、すんなりとHさんの担当が決まったらしかった。
Hさんが担当を申し出たのは、Hさんの子どもが聴覚障害児であり、聴力の悪化が進んでいて不安と苦労と将来を案じていたこと。
また、自分がそれらのことで悩んでいるのに京都府教育委員会で障害児者問題に関わる仕事がなにも出来ていない、一層京都府教育委員会を辞めて、すべての聴覚障害児者と自分の子どものために力を費やしたい、という強い決意が芽生えてきた時にろうあ者成人講座開催の話が出てきた。
だから、なんとしてでもこの仕事をしたかった、とのことだったらしい。
次から次へとHさんに注文を
ろうあ協会役員もろうあ者の人々も役所の内部問題だったのでまったく知らなかった。
だから、ろうあ者成人講座開催について、場所、学習内容を次から次へとHさんに注文を出していった。
役人ぶらなくて物腰が柔らかく
ていねいでろうあ者の思い以上の対応を
Hさんは、ひとつひとつ非常にていねいに対応し、ろうあ者のねがいを内容的に充分すぎるほど受けとめて、企画・実施し、すべての責任を負われて仕事をされた。
そのため、ろうあ協会の役員はもちろんろうあ者みんながろうあ者成人講座が地元で開催されることを心待ちにするようになって行った。