手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

母 姉 兄 弟 京都 の 手話

 手話を知らない人も

   手話を学んでいる人もともに

{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

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 手話研究誌の掲載をしたとき、伊東雋祐先生は、母という手話を「血のつながった」「肉親の」という人差し指をほおにつけ、下に降ろして、女を示す一瞬の動作である「母」を見逃していた。

 

 無理もないことであるが、50分の一秒で示されるこの手話は、すぐ解っても「分解すると」解らなくなるのである。

 

 写真の母は、まさに人差し指を下方に押し下げながら「女」=母・母親の手話の「中間の瞬間」を捉えている。

 

      女を小指・男を親指で表現する意味

 

 1980年代になって、女を小指・男を親指で表現することを男は大きくて女は小さいとする男女差別だ、と京都ろう学校に来た性教育者からろう学校の伊東雋祐先生は激しい批判を受けた。

 

 そのため非伊東雋祐先生は常にたじろぎ、京都の手話に熟知している人が集まって手話表現を遡って調べた。

 

 そして、親指と小指の表現はいこえる人が通俗的に使っているものを取り入れたのではなく、戦前の日本人の体格の「差」から来ていることが解った。

 

 逆にその性教育者の言う「正しい性教育用語の英語」はラテン語からの用語で男性・女性を侮蔑した意味合いがあることも解った。

 

    微妙な違いで 細やかに表現

 

 人差し指を下方に押し下げながら「女」=母・母親の手話は、小指を頬につけ小指を出すという手話をするろうあ者もいた。

 

 小指を頬に付けない場合は、「義母」となるが、1960年代に入って「血族」と言う考えが変わるに従って「小指を頬に付けない」場合が多くなっていく。
 
  「男は大きくて女は小さいとする男女差別」でないことは、以降の「主婦」の手話でも解る。

 

 姉、兄、は、自分より年上だから上に、弟、妹は自分より年下だから下に親指や小指が「下げ」られた。

 

「兄弟」の場合は、中指が使われた。

 

 この「上・下」の位置によって年齢のひらきもおよそ解るように手話で伝えられた。

 

 微妙な違いであるが、じつに細やかに表現されていた。

 

 

手話 人びとをつなぎ 織り合わせ 微妙な動きに籠められた愛情 手話 手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに

 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議  佐瀬駿介ー

1954年手話冊子に記録させている「あかちゃん」。

  手のひらを拡げ両手を左右に小刻みに動かす。

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  ことばを発する前後のあかちゃんの身振り・動作を表現している。

 

 また、当時、あかちゃんをあやすときに大人が行った「いないないばー」のようにあかちゃんをあやすときの動作をもとりいれている。

 

 あかちゃんに出会ったときに赤ちゃんを「あやす様子」。人びとは赤ちゃんを愛し続けていた表れの手話。

 

  あかちゃんの手話は、あかちゃんの成長とともに手話表現は変化しているが、この場合はよく使われている代表的な「あかちゃん」が記録されている。

 

 追視が充分出来ない時期の赤ちゃんを視界の範囲で解るように左右の手を微妙に動かす。バイバイの意味でない。

 

 この微妙な手の動きにすべてが籠められている。

 

 時代とともに消されてはならない手話「あかちゃん」。あかちゃんの微笑み返しが手話をする人の瞳に映るような手話。

 

 「1954年手話冊子」より(1)-1

     

      第1章  手話の意味

 

 現在、社会の極く限られた集団の間で使用されている手話について、その意味を考え、僕達の手話をめぐって、お互いの意志、感情の伝達や報告の手段として使用されている手話について、その意義を考え、僕逹の周囲をとりめぐって、お互いの意志、感情の伝達や報告の手段として、人類社会を有機的に結合せしめているコミュニケーションの中に位置ずけ、体系的な定著(定着)を試みようとする事は、ひどく困難な仕事だと思う。

 

  手話はお互いの意志
感情の伝達や報告
の手段として使用されている

 

 プロレス人気が高り、テレビが各家庭にない時代みんなは銭湯に行き、テレビを見に行っていた時代。

 

 京都では手話を記録し、その法則性を記号化し検討していた。

 

 現在では到底信じられず不可能なことに挑戦していた先達者に敬意を表し、少しずつ「1954年手話冊子」を紹介検討したい。

 

  人類社会を有機的に結合せしめている
 コミュニケーションとしての手話

 

 手話を「お互いの意志、感情の伝達や報告の手段として使用されている」として「人類社会を有機的に結合せしめているコミュニケーションの中に位置ずけ、体系的な定著(定着)を試みよう」と意図していることは、以下 「1954年手話冊子」に貫かれたpolicyである。

 

 手話を社会から切り離すのではなく、健聴者と手話は別立てとするのではなく「人類社会を有機的に結合せしめている」とglobalな視点から考えている。

 

 後に掲載するが、この当時から「手話はろうあ者の母語」とする主張があった。

 

 それに対する全面的な批判をし、その誤りを指摘をし、人類社会と有機的に結合する検討が進められている先駆性に学ぶことはあまりにも多い。

 

「 京都 の 手話 」を紐解くまえに 手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 故明石欣造さんが、伝承を願った「京都の手話」を紐解いて紹介する前に、明石欣造さんのことを少し紹介しておきたい。

 

   徹底した口話教室で

     教えられた中で

 

 戦前、ろう学校で「口話教室」で徹底した口話教育を受けた。

 

 そのため読話の能力は、高い。

 

 よく読話は、正面から読み取ると理解されるが、明石欣造さんの場合は違った。隣にいても話を読み取った。
 
 昔は、洋画は字幕入りであったが、邦画はそうではなかった。

 

 邦画=日本映画のこともともかく詳しくストーリーはもちろん、俳優のセリフや擬音まで説明するので聞いたことがある。

 

 するとベテラン俳優ほど口形が読みやすく、言っていることがほとんど解った、と言う。
 
 字幕のない時代の邦画をろうあ者の人は観なかったという人がいるが、そうではない。

 

 昔は会場入れ替えもなく、二本立て三本立てはあたりまで休みになれば朝から最終上映まで映画館に入り浸りだったというろうあ者の話は数多く聞いた。

 

 でも、観ていてどうも解らないところがあったら同じ映画ファンで顔見知りの人に聞いて理解したそうである。
 
 文化的なものから排除されたのではなく、それに食らいつき同じ楽しみを共有しようとしたろうあ者も数多くいたことも知っておくべきだろう。

 

  もちろん、落語も漫才なども。

 

まるで猿のようと笑い
   殴られて悔しい思いから
      手話に魅せられて

 

 だが、口話法で育った明石欣造さんが、手話で話す同じろう学校の生徒に出会ったとき(同じろう学校の敷地内でも口話教室と手話教室は隔絶されていたという。)「まるで猿のよう」と笑った。

 

 それに怒った生徒にムチャクチャに殴られて悔しい思いを抱き続けたが、いつしか手話に魅了され、手話での会話を楽しむようになった言う。

 

 そのため明石欣造さんは、音声言語の構文も手話の構文も熟知していた。

 

  1954年手話冊子の遺産と再記録

 

 1986年から明石欣造さん、伊東雋祐先生とともに1954年1月から7月にかけて京都での手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)記録・研究冊子【以下1954年手話冊子と省略して述べる。】の画像化に取り組み手話通訳研究誌28号から掲載した。

 

 この掲載の解説は、伊東雋祐先生が書いたが、多くの点で充分ではなく加筆修正を依頼されていたが、出版に割かれる時間が膨大であったため見切り掲載をした。

 

    紹介する手話表現だけが
 京都の手話であったと
           断定しないで理解を

 

 今からこの1954年手話冊子(1954年以前、すなわち明治以降の京都の手話も含む)と1986年3月以降掲載された「1954年手話冊子」を合同して京都の手話を紹介する。

 

 1954年手話冊子に述べられている通り、手話の多様な表現と社会生活との関連を踏まえて紹介する。

 

 決して紹介する手話表現だけが、京都の手話であったと断定しないで理解していただきたい。
 
 1954年手話冊子は、古く不鮮明になった文字や旧漢字。当時の印刷ーガリ版刷りーのため独特の省略文字が使われている。

 

 一部再現しつつ断りを入れて文章を再現していること。

 

 現存する画像等を掲載し後世に伝達したいこと。

 

 同時に手話を知らない人も手話を学んでいる人も聞こえない、聞こえにくいと条件の中で揚棄したろうあ者の熱き熱意と知恵と創造を知っていただくたく思う。

 

 

京都 の 手話 貴君しかない 手話 を知らない人も 手話 を学んでいる人もともに

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写真 道ーろうあ者運動を支えた人々(著者豆塚猛 発行全日本ろうあ連盟)より

 

新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 1954年1月から7月にかけて京都で手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)が開かれ、記録・研究した冊子が出されている。このメンバーだった明石欣造さんから1960年末にこの冊子を更に充実させて欲しいとの願いを籠めて手渡された。明石欣造氏から直接に書かれた手話を伝授された立場から、手話の今日的解明研究のための一考察と冊子に書かれていることを紹介したい。
 ただし、この冊子は、古く不鮮明になった文字や旧漢字。当時の印刷ーガリ版刷りーのため独特の省略文字が使われているが、一部再現しつつ断りを入れて文章を再現したが、誤解を避けるためにこの冊子の全文を手話の今日的解明研究のための一考察の後に公開したい。現存する画像等を掲載し後世に伝達したい。同時に手話を知らない人も手話を学んでいる人も聞こえない、聞こえにくいと条件の中で揚棄したろうあ者の熱き熱意と知恵と創造を知っていただくためにこれほどうれしいことはない。

 

  想像だにしなかった
人間としての暮らしが見てとれる

 

 信じがたい重圧に耐えぬいた生命力。

 

 写真と文字を読めば想像だにしなかった人間としての暮らしが見てとれる。それが豆塚猛氏の「道ーろうあ者運動を支えた人々」の本なのである。

 

 「道」に登場する故片岡吉三さん。

 

 幼少期、京都で指折りの資産家の家で育ち最高の教育や生活が与えられた。

 

 だが、一瞬にして極貧生活を強いられる。

 

 戦時中の厳しい監視下の基で、凍える手に息を吹きかけて日本画を描き続けた。

 

 その緻密さと見事さは見るものを驚嘆させた。

 

 その彼が、カメラマンの豆塚猛氏に色紙を示している。

 

   京の手話 貴君しかない

 

 色紙には「京の手話 貴君しかない」と書かれ、故明石欣造氏が亡くなったときに贈った色紙のコピーと書かれている。

 

 だが、私には、それだけでないことが読み取れる。

 

 人間はみんなひとりひとり違うのだ。

 

 それだからあなただ。貴君なのだ。

 

 それのことを理解してみんなでまとまっていこうじゃないかと表情で現したメッセージの発信。

 

 そう読める。

 

 到達点にたどり着くまでには数え切れない事件と血と涙が流されてきた。

 

 次のより高い到達点を目指すのだとも語りかけている。

 

 哀しみを吹っ切り手話で語りかけている片岡吉三さんは、哀しみより喜びが勝るろうあ者運動で闘ってきたことを笑顔で提言している。 

 

   伝承を願った「京の手話」

 

  この「京の手話 貴君しかない」の貴君が一人称でないことは充分理解できたが、この色紙が反射してあることを伝えた。

 

 明石欣造さんが、死ぬ直前までに私に伝えた、伝承を願った「京の手話」のことである。

 

 道ーろうあ者運動を支えた人々(著者豆塚猛 発行全日本ろうあ連盟)は、1954年1月から7月にかけて京都の手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)が開かれ、記録・研究した冊子とそれを画像として記録した明石欣造さんの手話を、なぜ貴方は研究・検討、公表しないのかと迫っているように思えてならなかった。

 

  私は、手話を講習会やテキストがまったくない時代、直接ろうあ者の教えてもらい、それを受けとめ咀嚼した。

 

 その時、一番アドバイスをしてくれ、1954年に作成した京都の手話研究会の冊子「手話」を手渡してくれたのが明石欣造さんだった。

 

 そこで故明石欣造さんが、伝承を願った「京の手話」を少しだけ紐解いて紹介してゆきたい。

 

 

 

京都 の 手話 手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに学び共感し人間を謳歌するために

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 写真 道ーろうあ者運動を支えた人々(著者豆塚猛 発行全日本ろうあ連盟)より

 

{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 1954年1月から7月にかけて京都で手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)が開かれ、記録・研究した冊子が出されている。このメンバーだった明石欣造さんから1960年末にこの冊子を更に充実させて欲しいとの願いを籠めて手渡された。明石欣造氏から直接に書かれた手話を伝授された立場から、手話の今日的解明研究のための一考察と冊子に書かれていることを紹介したい。
 ただし、この冊子は、古く不鮮明になった文字や旧漢字。当時の印刷ーガリ版刷りーのため独特の省略文字が使われているが、一部再現しつつ断りを入れて文章を再現したが、誤解を避けるためにこの冊子の全文を手話の今日的解明研究のための一考察の後に公開したい。現存する画像等を掲載し後世に伝達したい。
 同時に手話を知らない人も手話を学んでいる人も聞こえない、聞こえにくいと条件の中で揚棄したろうあ者の熱き熱意と知恵と創造を知っていただくためにこれほどうれしいことはない。

 

  人生の苦しみと共にろうあ運動を
すすめてきた数万の人々の思いとねがい

 

  道ーろうあ者運動を支えた人々(著者豆塚猛 発行全日本ろうあ連盟)の本を初めて豆塚猛から手渡された。

 

 本に描かれ登場する36人のろうあ者運動の担い手たち。人生の苦しみと共にろうあ運動をすすめてきた数万の人々の思いとねがいはずっしりと私に伝わってくる。

 

 私は、36人のろうあ者の人々だけではなく数万のろうあ者の人々と直接はなしを交わし手を携えて行動した。

 

 もう数十年の前のことになる。みんなは若かった。

 

 極貧生活だがたぎる情熱で基本的人権を守り保障を要求する。

 

 血潮は静かな波紋を次々と拡げ大きなうねりを形成した。

 聞こえない人々の問題として。数十年の時を経て本の顔に魅入ってしまう。

 

 カメラマン豆塚氏は、ある人の人生を一瞬で凝縮して写真に撮りこむ。その冴え渡った技量は賞賛しすぎることはない。

 

   ろうあ者運動を団結させた
「集団コミュニケーションの旗印」

 である手話が
   消し去ろうとされている

 

 生まれ育つ中での屈辱、哀しみ、叫ぶことすら許されない時代の到来。みんなで手を携えて喜びあふる運動をすすめた。

 

 人々への全幅の信頼の「誕生」。

 

 憎しみ続られ、憎しみ続けた人々との和合と分かちがたい団結。

 

 そして、はたし得なかったねがいを次世代に伝えようとする想い。

 

 すべての顔が語りかけてくる。
 
 撮られている人々をよく知っているから述べるのではない。

 

 本を手にされた方々が、哀しみ、人生に疲れ切ったり、嬉しくて空を舞いたくなるときなどにもう一度写真を見れば、最初観たその人の表情に別の表情と意味を汲み取ることが出来はずである。

 

 ろうあ者問題と言えばばすぐ、聞こえない人だから手話や手話通訳、差別や無理解があると頭から決めつけて語る人々が増えている。

 

 手話を学ぶ人々の中ではこの手話が正しい、とかこうすべきだ、手話を知らないことがろうあ者を理解していないことだ、と言う人も多い。

 

 そのためか手話が、ろうあ者運動を団結させた従来の「集団コミュニケーションの旗印」であったことが消し去ろうとされている。

 

 全国に散在していたろうあ者が集い、違いを乗り越え団結し、創造し得た「コミュニケーション手段」が手話である。

 

 国や行政や上からの規格化、統制された手話では決してなかった。

 

 ろうあ者の英知が結実したのが手話なのである。

 

 手話は数十人、数百人、数万人、数億人の人々との対話と会話を可能にした。

 

 揉まれて独りよがりで自分たちだけ利権を主張するなどのことを集団討論と集団行動で駆逐されてきた日本のろうあ者運動は、国際的に高く評価される誇るべき歴史を持っている。

 

 今、肝心なことが見失われそうな時期でもある。が、ろうあ者の人々が、基本的人権蹂躙の苦しみの中で民主主義を渇望し、民主主義運動に身を投じ広範な人々と手を携えてきたことの歴史を見据えなければならないだろう。

 

先見の明 1952(昭和27)年 職業病というような言葉がなかったころ日本の国会が「職業病」との関係で調査・対策をしている

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(国会議事録 資料と解説) 第118回国会 地方行政委員会 第4号1990( 平成二年)六月一日(金曜日)議事録より解説 手話通訳者の職業病及び労働災害認定について国会史上初めて全面的に取り上げられた。この時の議事録の内容を解説と共にみなさんと共に考えて行きたい。佐瀬駿介

 

 国会では、1952年に「八名の専門の医師がチームをつくり共同調査」をして、「国会速記作業の実態及び作業強度に関する調査報告」を出したことが明らかにされている。この時期、国会の議事録を廃止して音声記録による文字変換の考えが出されていた。だが、音声を文字に変換する場合は、速記よりも正確に記録できないことが明らかにされていて賛否両論があった。

 議員の目の前に居る速記の仕事をする人々の重要性と手話通訳の重要性が取り上げられたことは、それぞれの領域と共通性から職業病予防の問題に迫った点で注視されていいだろう。

 

   昭和二十四年  国会速記作業の実態

   及び作業強度に関する調査報告

 

○諫山博君 私はこの質問に当たりまして、国会の速記士のことを調べたんです。

 

 ところが、国会というのは大変先見の明があったんだなと感心しました。

 

 昭和二十四年に八名の専門の医師がチームをつくりまして共同調査をしているんです。

 

 そして、「国会速記作業の実態及び作業強度に関する調査報告」という二十三ページにわたる相当長い報告書を出しております。

 

       職業病との関係

 速記の時間は一回は十分が限度

    手話通訳についても

 

 この中で、やはり職業病との関係、速記の時間は一回は十分が限度だと、あるいは一日に三回か四回ぐらいしかやっちゃいかぬ。

 

 これは昭和二十四年に、職業病というような言葉がなかったころ、日本の国会がこういうことをやっているというのに私は大変感心しました。

 

    手話通訳についても時間の限度をやってもらいたい

 

 こういうことを手話通訳についてもやってもらいたいというのが私の要望です。
 
 とにかく障害者対策推進本部が障害者対策に関する長期計画というのを発表していますけれども、これはなかなかいいことが書いてある。

 

 手話通訳の制度化を図る、手話等身体障害者関連奉仕員に関する施策の充実を図る、なかなかいいことが書いてあるんですけれども、この立場を貫く限りぜひ私の要望にこたえてもらいたいということです。これは答弁要りません。

 

                                                                                                                     (了)

国会史上初めて手話通訳者の職業病・労働災害がとり上げられた

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(国会議事録 資料と解説) 第118回国会 地方行政委員会 第4号1990( 平成二年)六月一日(金曜日)議事録より解説 手話通訳者の職業病及び労働災害認定について国会史上初めて全面的に取り上げられた。この時の議事録の内容を解説と共にみなさんと共に考えて行きたい。佐瀬駿介

 

  この当時の自治大臣は、石川出身であった。アイラブパンフ運動などの手話通訳保障の要求をろうあ協会や手話通訳者などが粘り強くとりすすめていた。対話などの名称で各議員との懇談を始め多くの実態報告が各議員の胸を打っていた。だから、自治大臣は国会の場で「手話通訳者が聾唖者にとっては本当に大事なお仕事であり、また手話通訳に従事されている人たちというのは心の優しい人で、思いやりのある人がそういった手話なんかを覚えられるのだと思います。そういった意味において手話通訳に従事されている皆さんのお仕事の大切さというものは十分認識いたします。」と答弁する。この自治大臣の答弁は、手話通訳者の労災認定に決定的な影響を及ぼし、滋賀県の手話通訳者の労災認定は、国会質問・答弁後、その月に認定されるという画期的なことが生じる。

 

      新しい職業病が出てきそうになると
  その都度、後追いにはなりるが

 

○政府委員(滝実君) この問題は先生の御指摘のような点もあろうかと思いますので、私どもは厚生省あるいは労働省ともよく相談しながら、今後こういうような問題の起きないようにそういう点につきましてよく相談しながら研究をし、必要であれば今おっしゃったような方向で私どもとしても努力をしてみたい、かように考えております。

 

○諫山博君 自治大臣に聞きますけれども、今私が幾つか例を挙げたように、例えばタイプとか筆耕とか速記とかいろんな仕事については連続して一時間以上やってはだめだ、この一時間の間に十分ないし十五分ぐらいの休憩時間を与えなければならない、一日の時間は三百分以内だ、こういう規制がされているんです。

 

 そして、これは一たんそういう規制が決まっておしまいではなくて、新しい職業病が出てきそうになるとその都度、後追いにはなりますけれども新しい基準が決まっているわけです。

 

 現在、職業病として問題になりながら全く基準が決まっていないのが手話通訳だと思います。

 

 手話通訳の職業病が多発して、それから対策を立てるのではもう間に合わないわけです。

 

 現にこういう問題が起こっていますから、やはり手話通訳者を一番たくさん雇用している自治体などでこの問題の音頭をとったらどうかと思いますけれども、いかがでしょう。

 

  自治大臣
  専門職自治体が雇用しているということ
 身分は当然保障されていくべき

 

国務大臣奥田敬和君) これは一義的にはやっぱり厚生省なり労働省が担当さるべき問題だと思いますけれども、手話通訳を専門職として自治体は恐らくそんなたくさん雇っていない実情だと思うんです。

 

 だから、先生のはまず第一番に手話通訳者を専門職として自治体に雇えと、そんな御質問とはまた違うわけですね。

 

○諫山博君 雇われていますよ、たくさん。

 

国務大臣奥田敬和君) そうですか。

 

  私の知っている限りにおいては、常勤嘱託のような形で、身分は確かに不安定な立場で、ボランティアを半分交えたような形でやっておられるような例は知っておりますけれども、専門職として既にたくさん自治体が雇用しているということでございますから、その形においては身分は当然保障されていくべきであろうと思っております。

 

      頸肩腕症が手話通訳に

  直結する職業病であるか
         それからのことを念頭に入れながら

 

  ただ、手話通訳者の頸肩腕症、これは職業病として認定すべきであるという形で言われても、それはとても私は今御返事するだけの知識も持っておりませんし、また、果たして頸肩腕症が手話通訳に直結する職業病であるかということになると、これまたなおさら今先生の御質問にこうするとお答えする自信はとてもございません。

 

 ですけれども、そういう実態がおありになるという例証を挙げての御質問でございますから、それからのことを念頭に入れながら、自治体の中で専門職として雇用している実態はどれくらいあるのかということお把握からまず努めたいと思っております。