{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
故明石欣造さんが、伝承を願った「京都の手話」を紐解いて紹介する前に、明石欣造さんのことを少し紹介しておきたい。
徹底した口話教室で
教えられた中で
そのため読話の能力は、高い。
よく読話は、正面から読み取ると理解されるが、明石欣造さんの場合は違った。隣にいても話を読み取った。
昔は、洋画は字幕入りであったが、邦画はそうではなかった。
邦画=日本映画のこともともかく詳しくストーリーはもちろん、俳優のセリフや擬音まで説明するので聞いたことがある。
するとベテラン俳優ほど口形が読みやすく、言っていることがほとんど解った、と言う。
字幕のない時代の邦画をろうあ者の人は観なかったという人がいるが、そうではない。
昔は会場入れ替えもなく、二本立て三本立てはあたりまで休みになれば朝から最終上映まで映画館に入り浸りだったというろうあ者の話は数多く聞いた。
でも、観ていてどうも解らないところがあったら同じ映画ファンで顔見知りの人に聞いて理解したそうである。
文化的なものから排除されたのではなく、それに食らいつき同じ楽しみを共有しようとしたろうあ者も数多くいたことも知っておくべきだろう。
もちろん、落語も漫才なども。
まるで猿のようと笑い
殴られて悔しい思いから
手話に魅せられて
だが、口話法で育った明石欣造さんが、手話で話す同じろう学校の生徒に出会ったとき(同じろう学校の敷地内でも口話教室と手話教室は隔絶されていたという。)「まるで猿のよう」と笑った。
それに怒った生徒にムチャクチャに殴られて悔しい思いを抱き続けたが、いつしか手話に魅了され、手話での会話を楽しむようになった言う。
そのため明石欣造さんは、音声言語の構文も手話の構文も熟知していた。
1954年手話冊子の遺産と再記録
1986年から明石欣造さん、伊東雋祐先生とともに1954年1月から7月にかけて京都での手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)記録・研究冊子【以下1954年手話冊子と省略して述べる。】の画像化に取り組み手話通訳研究誌28号から掲載した。
この掲載の解説は、伊東雋祐先生が書いたが、多くの点で充分ではなく加筆修正を依頼されていたが、出版に割かれる時間が膨大であったため見切り掲載をした。
紹介する手話表現だけが
京都の手話であったと
断定しないで理解を
今からこの1954年手話冊子(1954年以前、すなわち明治以降の京都の手話も含む)と1986年3月以降掲載された「1954年手話冊子」を合同して京都の手話を紹介する。
1954年手話冊子に述べられている通り、手話の多様な表現と社会生活との関連を踏まえて紹介する。
決して紹介する手話表現だけが、京都の手話であったと断定しないで理解していただきたい。
1954年手話冊子は、古く不鮮明になった文字や旧漢字。当時の印刷ーガリ版刷りーのため独特の省略文字が使われている。
一部再現しつつ断りを入れて文章を再現していること。
現存する画像等を掲載し後世に伝達したいこと。
同時に手話を知らない人も手話を学んでいる人も聞こえない、聞こえにくいと条件の中で揚棄したろうあ者の熱き熱意と知恵と創造を知っていただくたく思う。