手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話 明治・大正・昭和と伝承 警察 家来 手話を学ぶ側からの

手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに

  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 京都では、明治時代に育ったろう者は、警官=腰のサーベルで手話表現していたが、ここでは帽子に付いた丸のマークで警官を現している。

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  家来。正面から撮影すると解りにくいので、ここでは斜め横から撮影した。

 

 この時期から、手話を正面から撮影したり、イラストも正面から描かずよりわかりやすく描くように心がけた。

 

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 伊東雋祐著作集の表紙では、伊東雋祐氏が手話をしている様子を後方斜めから撮影して手の動きを表した。

 

 このことを知る人はごくわずかである。

 

 豆塚猛カメラマンの巧みな撮影があって実現した写真である。(なお このブログに掲載している写真はすべて豆塚猛カメラマンが撮影したものである。ブログの制限によりが画像は荒くなっているが、本来は、一枚一枚を2m四方に拡大しても遜色のない写真である。)

 

 手話テキストのイラストや動画があふれかえっている今日、手話を見る側からイラストが描かれ、動画が撮影されている。

 

 手話をする側でないのに「手話を見る側」からの動画やイラストを見て手話を学んでいるのに「読み取り通訳は難しい」と言う人がいる。

 

 じつに奇妙な話である。

 

 近年は、「空文字」ということばも手話通訳者の間で話されないが、空文字は1950年代や1960年代には頻繁に使われた。ひらがな、カタカナ、漢字を話し手が空に書いて手話と組み合わせる方法である。

 

 そのひらがな、カタカナ、漢字を見る側は、裏返しの文字を読み取ることになるのだが人間の脳の作用もあってそれが読み取れる。

 

 このことは、以降掲載する「1954年手話冊子」にも述べられている。

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   前の上位に立つ侍などに対して腰をかがめて従う者=家来と手話で表されている。

 

    主従関係は、単なる上下関係ではなく「従う」と言う意味合いで手話が表されている。

 

 腰をかがめた様子は、主従関係の全容の意味を伝えている。     

 

口話法による教育と手話の発達 京都 の 手話

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手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに

  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

   口話法による教育と手話の発達

 

  「1954年手話冊子」 第1章 (1)-3

 

 その後手話法に対して口話法による教育ー彼等は聞こえないだけで、練習によって発音は可能であり、対者の読唇によって、伝達や交換は可能である。ーが発達し、我國(以下国)なども、全国殆ど(以下ほとんど)ろうあ学校が口話法によっているが、こうした教育者の理想と現実は、必ずしも一致するものでもないらしく、「手話」を切り放して現在のろうあ者の世界と考えることができない。

 

  手話は手による(身振り、表情も含めた)
コミュニケーションの方法

 

 「手話」は、その文字の意味が示す通り、手による(身振り、表情も含めた)コミュニケーションの方法である。

 

 又これは、音声言語が、単音とか音節とかの組合せによって、物事をシンボル化し、ある意味を持つ単語が成立し、単語が有機的に組合わされて更に文節となり、文章となり、人間の意志感情の伝達、報告を交換するのに比して、「手話」には、そうした分析を試みるには、あまりにも雑然としていて、原始的である。(或いは、音声言語の方法とは全く違った分析の手続きをとらなければならない)。

 

  手話は複雑な思想感情を駆使して
表現できる音声体系のように
高度ではなく、体系的ではない
としているが

 

 例えば、親指を示せば「男」、両手のそれを示せば「男達」、小指は女、両手の親指と小指を合わせて左右に開けば「男や女やいろいろ大勢」で「民衆」とか「人々」とか「今日は『大勢』お集まり下さって」とかいう意味になり、それはそれで分類され得るが、更に親指は、「何々長」とか「親父」とか、「お客さま」とか、又は「怒る」とかいう場合にも用いられるといった具合で、何分、複雑な思想感情を駆使して表現できる音声体系のように、高度ではなく、体系的ではない。

 

  手話と口話教育を全面的に対峙して手話を論じていないのが、「1954年手話冊子」の冊子の特徴である。

 

 これは当然と言えば当然のことであるが、手話と口話を対立的に捉えている人々には、許容しがたいことだろう。

 最近、手話と口話を対立的に捉えている人々の主張を詳しく調べてみると「手話の成立」について、ほとんど調べようともしていないことが解る。

 

 空間に描かれた「文字」「コミュニケーション」が、記録されていないことは、事実であるが可能な限り調べようともしていない。ろうあ者や障害者の記録は奈良時代までさかのぼることが出来る。ここでは、このことを述べないが、手話と口話の問題について「1954年手話冊子」は充分注目に値する。

 

 「対者の読唇によって、伝達や交換は可能」ということから、「音声言語が、単音と

か音節とかの組合せによって、物事をシンボル化し、ある意味を持つ単語が成立し、単語が有機的に組合わされて更に文節となり、文章となり、人間の意志感情の伝達、報告を交換する」ことを知り、手話のコミュニケーションの「分析を試みる」が手話は「あまりにも雑然としていて、原始的である。」とするが、これは 「1954年手話冊子」のprologueとして述べているにすぎない。

  だから、手話は、当時、「複雑な思想感情を駆使して表現できる音声体系のように、高度ではなく、体系的ではない」とされていた傾向に果敢に挑戦して行く。

 

 

主婦 家族 芸者 京都 の 手話

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  手話も時代を映す「鏡」であると言える。

 

 そのため、以降、現在、ほとんど使われなくなった用語の手話なども掲載してゆきたい。

 

 主婦は、右手で屋根=家を表し、左手の女を下から上にして、家の中心人物であり「長」でもあるという表現である。

 

 家のすべての中心で、家全体をおさえている表現が、手話の主婦。

 

 ここには、主婦がどれだけ家族にとって大切な役割をしているのかが、見てとれる。
 

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   これに対して、家族は、一つ屋根(家)の元に暮らす人々で表現されている。

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 右の写真でも解るように、人差し指と中指と、薬指を曲げて男女を婉曲に曲げてひろげる=人々と手話表現している。

 

 このことは、男女の人々という意味もあり、人々・民衆・みなさんなどに「多様」されるが、屋根=家 を形作ってそのイメージを残しつつ、その屋根の片方を右手で「残し」たまま、人々を表現することによって「家の人々=家族」としている。

 

 ここには、戦前の家長・戸主などの手話をしないで戦後の家族制度を表現している。

 

 芸者。

 

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 現在の京都では観光やポスターで現されている「芸者」の表現ではない。

 

三味線を弾く様子を現し、芸事に励む女性を尊敬の念で表現している。

 

 もちろん舞妓の手話もある。

 

 京都では、芸者を好ましからぬ女性とする傾向がある中で、このような手話をするのにはわけがあると明石欣造さんは語っていた。

 

 芸者のつらい心情とろうあ者の心情が、なぜか通じ合っていて、ろうあ者に対して芸者さんはあたたかく接してくれたという。

 

 また芸者独特のお座敷での芸者同士の合図。例えば、「いけすかん人」「そろそろ引き上げましょう」「いややわあ!!」などのこともろうあ者の人々は、よく知っていた。

 

 お客だから大事にせんならんけれど、芸者さんも人間。言いたいこともあるが、それを言えない辛さ。

 

 襟のある部分をつまむと‥‥‥などの合図は、お客さんには解らないが芸者同士で通じるコミュニケーション。

 

 手話との共感があったようである。

 

幹部 あれこれとさばいて指名する 手話 

 京都 の 手話 手話を知らない人も

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  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

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  会員とは、「集まる」「寄る」「バッチ」「(「会員章)で、会員とするのだが、これはろうあ協会の「会員」という意味でもあるが、漢字の会は、集まることを意味し、員は、しるしを現すところから表現されている。

 

 ろうあ協会にとって、集まることは、大きな意味を持ち「手の指を広めて 丸く」表現するところに、ろうあ協会の会員がいろいろな違いを乗り越えて「まあるく」まとまることのねがいも籠められている。

 

 明石欣造さんの話では、戦後の全国のろうあ協会の集まりでは、手話表現の違いや地域事情、学歴などなどもあって、渾然としていたらしい。

 

  あちこちから、さまざまな意見が出され、その意見がかみ合わず苦労を重ねて今日まで来たとの苦労話は数え切れないほど聞いた。

 

 幹部は偉いさんではなく
   みんなにの意見をさばく
     まとめ役

 

   従って、幹部という手話は、みんなの見える机から、意見のある人をあれこれ指さして、発言の上で意見を「この通りですねと指さし」てまとめることから来ていると説明する。

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 会長は、「1954年手話冊子」では、「会」の「トップ」「長」ではなく、集まった(会)の旧漢字の「長」(镸)の「E」と「ノ」で示されている。

 

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ろうあ協会の運営が手話でも垣間見れる。

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  ろうあ協会は、自由度を保つためなどもあり、代議員という制度は、後になるが、「評議員」という人たちが全国大会などで意見を提案したり、意見を言った。

 
  評議は、あれこれ意見を言うことだが、明石欣造さん曰く、裃(かみしも)を着けるところから来ていると言っていたが、定かではない。

 

 映画の時代劇では、殿様の前で家臣がやりとりするシーンがよく出てきていたことを想起するが、断定するものはない。

 

 ただ、正式という手話が、「裃」の形を表すことなどから考えると、そうかも知れない、と思えることがある。

 

お客さん この両手の使い分けの巧みさに手話の本質が 京都 の 手話

  手話を知らない人も

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{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  右手の平に拳の親指を立てる。

 

 これでお客さんになる。

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 しかし、それを持ち上げることでそのお客が大切かどうか、を表現するし、また顔の表情でそのお客の大切さ、を示すのである。

 

     表情の組合せでどのような客か解る

 

 手の平にのせる「仕種」は、同じであっても表情の組合せでどのような客か解るのである。

 

 昨日、お客さんが来てということが同じ手話であっても、心から歓迎する人か、大切な人か、いやな人か、ただの客かが瞬時に解るのである。

 

 必ずしもそうとは限らないが、京都の客の「もてなし」「扱い」を踏襲しているとも言える。
 
 写真の場合は、まあまあのお客さん、と手のひらを少しあげているところから見てとれる。

 

      同一の手話であっても
  表情や動きで
  気持ち・感情が織り籠められる

 

 手話では、同一の手話であっても表情や動きで、気持ち・感情が織り籠められている。
 
 手話通訳が、見てとることの難しさもここにもある。

 

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  お姫さんは、手のひらに小指を乗せないで、手のひらを手首において表現している。

 

 これは、上に立つ、身分の高いなどの意味合いでそのように表現しているのである。これが、親指であるとお殿様になる。

 

 写真では、優しいお姫さん、上品なお姫さんと逝いたそうな表情である。

 

 

 これが、意地悪なお姫さんと表現する場合は、顔を「顰め」るのである。

 

 お殿様は、お姫様より上で、ちょんまげを同時に表現していた。

 

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 戦後、映画の時代劇には多くの歌舞伎者が出演した。その時の歌舞伎役者の表情の「艶やかさ」などをまねて、ろうあ者同士で話もすることも多かったし、昔話を競い合って手話で「演じた」ことも数知れなかったと明石欣造さんが語っていた。


「ふきでもの。はれもの。おでき」などは、その「できものの程度」でさまざまであるが、この場合は、丸く膨れあがった「できもの」を現している。

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  アベックという言葉は、使われない時代となっているが、以降も紹介したい。

 
 アベックとは、「恋人同士の二人づれ」ということであり、男女が歩く様子を緩やかな手の上下運動で表現している。

 

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 これらの恋にまつわる手話は、現代では信じられないほど多くある。

 

 両手で人差し指と中指で歩く様を表現しながら、近づいたり、離れたり、また近づいた利を繰り返し、この「アベック」の手話になるなど多彩な手話が繰り返された。

 

 

おじいさん おばあさん 京都 の 手話

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{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  男と女はすでに述べた通り、親指と小指で表現するが、肩、もしくは、肩より上で表現していることに注目して欲しい。

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 最近の手話通訳の手話を観ているとすべてではないが、一つの手話から次の手話に移行する時、一つの手話・次の手話とスムーズに手話表現されない場合が多いように思われる。

 

 これは、肩より下と腰より上の長方形の範囲内で手話で現すことも起因していると思う。

 

 写真に観られる男からお母さんへの手話を表現してみると手話がスムーズに移行する。

 

 すなわち、男とお母さんが‥‥‥と手話の流れがスムーズになる。

 

 男がおじいさんになると‥‥‥という手話も下記のように少し腰を曲げて男・親指を曲げると手話から手話へに移行がスムーズになり、「手話を観る側の目線」が疲れなく
理解しやすいのである。

 

 以降、説明は省略するが、一つの手話は、独立してそれだけで成り立っているのではなく、レゴのようにあらゆる組合せを無意識のうちに想定されて形成されている。

 

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 なお、おばあさんの写真は、正面だけの写真だけではわかりにくいので小指を曲げ、腰を曲げていることが解るように撮影した。

 

 腰や指の曲がりは、多様に変化する。

 

 そのことで、年齢の様子も表現するのである。

 

繰り返すが、おじいさん、おばあさんは、これだけの手話だけではなく、親指・小指を曲げて額に 波模様を描き、額の皺で年老いたことを表現するなどのこともあった。 

 

聽く と 聞く 京都 の 手話

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{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

「1954年手話冊子」より 
      第1章  手話の意味   (1)-2
 
  しかも、ここに取り上げようとするのは、産まれながらに聽(以下聴)覚を奪われ、音声を媒介として成し遂げられるコミュニケーション(伝達)の仕方から全く閉ざされている聾唖者(以下ろうあ者)が、彼等同士の間で形造り(以下形作り)使用して来た「手話」についての問題である。
 勿論、この「手話」が、まったく彼ら彼等によって行われていたかどうかは問題があるだろう。それは、聾唖教育がすべて「手話」によって行われていた歴史から考えていかなければならないだろう。
 なぜなら、彼等ろう者を若し社会からの、孤絶のままに放置しておくならー然しこの事は、聾唖教育(以下、ろうあ教育、ろうあ学校)史以前の彼等の状態が明らかに示しているだろう。
 彼等らは、誰かの異常な努力によって「教えられ」なければならない人と語ることを知らず、思考することを知らず一般社会とのコミュニケーションは不可能に近いのである。
 従って若したとえ、彼等間の集団を考えるとしても、(而も、それは人数に於いても一般可聽者(可聽者はろうあ者に対する用語として使われていた。以下、可聴者)に比して、極一部にすぎない。)果たして彼等が、「自分たち自身」「手話」を発達せしめたかかどうか疑わしい。

 

   孤絶のままに放置しておかれるのではなく
   一般可聽者の協力で

 

 要するに、協力したのは普通人であり、されたのはろうあ者であったと初期の正直な事実を記している。

 

 そうするならば、やはりこの「手話」の成立についても彼等を教育した人々の創作やアドバイスが相当入っているのではないだろうか。

 

 そうして、現在、ろうあ者の間のコミュニケーションの大方は、この「手話」によっている。

 

     聽くと聞く

 

  「1954年手話冊子」を読みこなし、調べると戦前戦後の文字をきちんと習得しておかないと理解できないことに気がつく。

 

 手話は漢字に由来する物も多くかって大漢和辞典を引いて、漢字をうまく取り入れた手話に感嘆したことがある。

 

 そのことを観ていた京都のあるろうあ協会の会員は、著名な漢文学者の父の蔵書を持って来てくれて漢字から手話表現が取り入られた事を証明するのに尽力してくれた。

 

 例えば、「1954年手話冊子」で聽覚と書かれているが、この場合は、現在省略されているが、もともと耳という文字を二つ書かれている。

 

 だから「聽く」は、両耳に音が入る手話であり、「聞く」は、片方の耳に音が入るという手話がなされていた。

 

hear⇒きこえる(聞こえる)・listen⇒ 聞こうとする(聞く)とほぼ同じ区別がされていたのである。

 

 漢字はヨメナクテモ、表意で受けとめて空間にその特徴を表現する手話表現する巧みさが読み取れる。

 

 そして、手話も含めた(ことば)の獲得は、一般可聽者の協力で獲得してきたものとして捉えている点は大いに注視すべきだろう。

 

  「手話」の成立についても彼等を教育した人々の創作やアドバイスが相当入っているのではないだろうか、としつつもそれ以降の中でさらに考えを深めていく。

 

 このことが、1960年から1970年代の手話表現の飛躍的な発達を遂げる要因になったともいえる。