手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

口づけ 接吻 キッス キス 鏡 靴 時計 時間 場合 時々 京都 の 手話

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手話を知らない人も

      手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

キッス。

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 接吻という手話ではない。

 

 キッス(Kissキス)は、戦後、外国映画で多くのろうあ者が目にして語り継がれた。

 

 映画を見た時のろうあ者は、キスシーンで恥ずかしくて下を向いていたと言う。特に男性の場合は、繰り返すキスシーンに次第に憧れを抱くようになったそうだ。

 

 このキスは、まさにその時の映画のシーンを彷彿とさせる。

 

  手話を見ていると、女性を抱き寄せてキスをする情景が浮かび上がる。

 

 口吸い、口づけ、接吻は、手指を膨らませて5本指は窄めて(口をイメージ)両手を近づけるが、その併せぐあいで表現が異なる。

 

 軽く合わせるだけ、手指の膨らませを変化させる(大きく膨らませたり、それを次第に小さく窄めたり。)手話であるが、これらの事は平安時代から変化してきたと明石欣造さんは言う。

 

 手話でこのような話になるとみんな夢中になって時を忘れた。その口吸いの表現の達人に憧れ、みんなが真似をしたとのこと。

 

 このような手話表現は、多様であるが確実に伝承されてきた。 


鏡。

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  伊東雋祐氏は、この鏡を合わせ鏡の動作から表現されていると言う。

 

 手鏡を前後ろにして、手のひらを鏡。

 

 手の甲を鏡の裏に見立てて、顔と髪の様子をよく見る女性の細やかなしぐさを一動作で表現している。

 

 顔の前の鏡と後ろ頭の高さを微妙に違えているところを見てほしい。

 

 同じ高さになると同じ高さで鏡を見ると無限に同じ顔が広がるためで、見たいところを見ようとするには、同じ高さでは見えないからである。

 

 特に着物姿の時の髪結いの状況を知るために「合わせ鏡」の手話がされている。

 

 当然、鏡がひとつの場合もある。

 ただ、鏡を見る時におもむろに鏡を覆った布をあげて、自分の顔を見るなどの手話などは、鏡の使い方や時代を反映して多様にある。

 コンパクト鏡が使われる時代になると、その手話表現は一層多彩になる。化粧する様子を魅入ったそうであるが。


 靴。

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 靴の形態ではなく、両足を指先から靴に入れて、引いて靴を履く動作から手話表現されている。

 

 たぶん革靴だろう。

 高くて貴重な靴。履く時にも慎重さが要る。ていねいに履く様子が、表情で示されている。

 

時計。

 

 時間。時。場合。時々。

 

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  針(人差し指)が中心軸(拳の中心)を回ることで、時計の動きと時間を表している。

 

 腕時計。ろうあ者のみんなが腕時計を持てるようになったのは戦後かなりの時が経つ。

 それまでは、懐中時計や駅の時計。ラジオ塔の時計。などさまざまに手話表現されてきたが、身につける腕時計はうれしくて、誇らしいものだった。

 

 従って時間とか「その時」=場合・時機などに多様に使われた手話である。

 

 この手話を二度繰り返すと、時々、その場その場となる。

 

 「時々、お会いしますが、あなたの名前は」の「時々」などに変化してよく使われた手話である。

 

 

手話は美辞麗句的虚飾を除いて内容だけをより具体的に理解できやすいように表現する 京都の手話

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

手話は語るべき内容を

美辞麗句的虚飾ををなるべく除いて
内容だけをより具体的に
理解できやすいように表現することに重点

 

「1954年手話冊子」第2章(2)-7手話の成立Ⅲ

 

  その他、「手話」についての、細かい事は次章にゆずることにするが、とに角も「手話」は、語るべき内容を、美辞麗句的虚飾ををなるべく除いて、内容だけをより具体的に、理解できやすいように、表現することに重点がおかれて、コミニケーションがされているのである。

 

 以上のべてきたように「手話」上はそれのみでは未開言語に似て、コミニケーションの低い仕方でしかない。

 

 よく一般ろうあ者の姿勢の知性の低さが問題にされるが、もし彼らが、こうした「手話」しか持たないのなら、それも当然の帰結であろう。

 

 そしてこういう事柄から、言語と思考の、根本的な問題が考えられはしないだろうか。

 

 ただし私達の大方は、自らがろうあ者の不幸を擔(になって)いるのだ。

 

  ろうあ者の思考過程や思考形態を
手話的思考過程から

音声語的思考過程へ高めよう

 

 こうして「手話」についての研究を始めたのも、「手話」を興味的に、又理論的にに考えてみようとしただけではない。
 
 こうすることによってさらに「手話」の語彙を多くしよう、まれに抽象的語彙豊富にしよう、のみならず、「手話」の裏付けとなるべき、音声言語によるコミニケーションの仕方を、より重要視して考えてみよう、そしてろうあ者の思考過程や思考形態を、手話的思考過程から音声語的思考過程へ高めよう、現在、知的には、社会の片隅におきざりにされているろうあ者の知性を、を少しでも、高上させていこうというのが、そのねらいでもある。

 

  「手話」を用いることがろうあ者の知性を低下させると考えるのではない
    音声言語的思考に習熟させることにより
   知性的向上に益するものであれと願う

 

 僕逹は、「手話」を用いることが、ろうあ者の知性を低下させると考えるのではない。

 

 その背後の音声言語的思考に習熟させることにより、「手話」表現が美しくあれ、彼等の知性的向上に益するものであれと願うのだ。

 

 そればかりではない。

 

 この問題をとおして、美しく正しく平易な日本語についても考えてみたいとも思うのだ。

 

 

 

 

手話も象形的表現表意的表現だ 京都の手話

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 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 「1954年手話冊子」第2章(2)-6 手話の成立 Ⅱ

 

   表情や、身振りが多くなるのは
   確かめ合いながら話合うから

 

 手話を用いて話合う時は、勢い表情や、身振りが多くなってくる。

 

 それは、伝達の具体化と内容を確かめ合いながら話合うからである。

 

 例えば「明日、協会から、明石へ海水浴をする」

 

ということを言うのに「手話」では、

 

「明日、協会の希望者、みんな集まって、明石、知ってるか、大阪ー神戸、その次のきれいな場所、海水浴場、去年もいたところ(へ)行く」

 

 といったような表現をとる。(もつともこれは知的水準の高くないろうあ者を相手にした場合であるが)

 

 又名前その他、「手話」語彙にない言葉は空間に文字を書く、そして、この文字を読めるには、視覚的な相当の訓練を経なければ容易ではない。

 

 (文字の意味が解らない場合にはもっと具体的な説明を必要とするが、なお理解出来ない場合には論外であるーその人達は「手話」も充分使えないのだ。)

 

  漢字が象形文字であるなら
手話も象形的表現表意的表現だ

 

 それから「手話」では、よく組合せを用いる。

 

 これは漢字の熟語にも似ていて、

 

 軍艦を(戦争の船)

 

のような熟語的用法や、

 

民衆(男女、色いろいろたくさん)、

 

家庭(家、父、母、兄弟)

 

などのように具体的なものを複合して用いる。

 

  今、手話が、漢字の仕方に似ていると書いたが、漢字が、象形文字であるなら、手話も象形的表現表意的表現だといってよく、このように、ひとうひとつの意味を組合わは、異なる組合せと言うよりも映画の、モンタージュに通じるものである。(エイゼンシタイン「モンタージュ理論

 

手話は地域により個人によりひどく異なる場合が多いことは当然であろう  京都の手話

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 手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  「1954年手話冊子」第2章(2)-5手話の成立Ⅱ

 

手話は  
個人が創作したものが流行して
    発語指導に用いるサイン

 

 (7)劇的手話

 

 ギョギョ(人が歩いていて、横倒れる)などの流行語とか、流石(水が流れる。石)、一石二鳥(鉄砲を打つ。鳥が二つ死ぬ。二つもうかる)などのようにまれにある個人が創作したものが、流行して、手話になる場合がある。

 

 又面白いのは、ろう公教育が、口話法に統一されてから、先生方が発語指導に用いるサインが手話になったりしている。(パンのように破裂音を親指と人指指を開いてサインしているが、これが「パン」という手話になり、パンパンになったりしているがごとき)

 

  当然であろう
  手話が地域により
個人によりひどく異なる場合が多いこと

 

 (8) 手話の方言

 

 一般人がほとんどあらゆる時間を通してさらされている新聞、ラジオ、テレヴィジョンによるマスコミにケーションから、聴覚的にはまったく閉ざされている彼等、彼等が、彼等同士でコミュニケーションし合う手話について、ラジオのごとく同じ内容を大勢のろうあ者が同じように伝達されるような場合は全く持つことが出来ない。

 

 せいぜい地域のろうあ者が集まって、講演を聴き、自分たちで語り合うくらいのものだ。

 

 従って手話は地域により、個人によりひどく異なる場合が多いことは当然であろう。

 

 しかも、一般人が同一言語であれば音韻ゲシュタルト(注 音韻構成)によって、完全な伝達がなされるるのに比して、手話には、視覚的ゲシュタルトによって、完全な伝達がなされない。

 

 現状では、近接府県や、全日本のろうあ者大会などの、地域的交流によって、幾分ずつでも手話は統一されつつあるようにしても(この場合、京都の人が九州の人の手話を見ていても、大体は、勘のようなものがあって前後の手話により話の内容を捉えることが出来る)

 

 まだまだ低い段階でしかない。

 

 例えば名前という手話を京都では親指と人差指が丸くして左の胸にあてるが、東京では、左掌にあてて名札をつけているまねをするといった具合である。

 

 そうして、こうした違い、が多くの語についってみられるようである。

 

  ううあ教育の歴史が古い地域の手話ほど
   語彙も豊富である

 

 今ひとつ見のがしてはならないことは、大体、ろうあ教育の歴史が古い地域の手話ほど、整理されており、語彙も豊富であることは、ろう学校を卒業した人たちが、多いから自然にそうなったのであろう。


 手話の特徴や成立を非常に柔軟・適応性(flexible)に考えていて、ここには硬直した考えは排除されている。

 人間の言語は、他言語を多様に受け入れ成立しているのであってその言語だけで成立・形成されたことはない。

 漢字のテストでよく北海道の地名を書かせる教師がいる。札幌と書かすだけで漢字が書けたとしているが、サッポロという読みは漢字の読みと相容れないことで戸惑う生徒も多い。

 サッポロは、アイヌ語の「サッ・ポロ」(sat-poro、乾いた大きい)や「サリ・ポロ・ペッ」(sari-poro-pet、その葦原が・広大な・川)であるとする意味があるなどの意見があるが、アイヌ語に漢字をあてただけで終始している漢字学習。それなら亜米利加と漢字学習をさせればいいのにとさえ思ってしまう。
 
 それを説明しないで漢字を書かせる。

 このことは、近年の手話を主張する人にも共通してある。

 「日本語でない言語が日本にはもう一つあるそれは手話である」、と主張する人々は、日本には日本語以外にアイヌ語があり、その他の言語や在留外国人の言語を肯定していない。

 特に、日本には日本語しかない前提で「もう一つの言語」というのは、国際動向から乖離していると言える。

 その上で「1954年手話冊子」の「手話の方言」を標準語に対する「方言」ではなく、「地域」・「地方」と理解する必要がある。

 このことを踏まえるならば、「1954年手話冊子」は多くの「違い」を「懐深く」受けとめていると言えよう。

 「手話は地域により、個人によりひどく異なる場合が多いことは当然であろう」
   「地域的交流によって、幾分ずつでも手話は統一されつつある」
 「大体は、勘のようなものがあって前後の手話により話の内容を捉えることが出来る」

 などは、手話をコミュニケーションとして大事にしているからこそ画一的な、断定的な手話をもとめていないのである。

 いや、この時代は、全国に通用しないとして手話を否定していた人々が、さらに手話を否定する理由として多々発言したことは手話の歴史上忘れてはならないことである。

 

手話の前後の表現で同一の手話であっても異なった意味合いとして理解出来る  京都の手話

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       手話を学んでいる人もともに
 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  「1954年手話冊子」第2章(2)-4手話の成立 Ⅱ

 

 (5)他の意味から展開してきた手話

 

 例えば明石欣造さん(明るい固い)や本田さん(本と田)などの人名や地名を。漢字の意味を、漢字の意味を表現して表したり、月曜日(月)火曜日(火)やパンパンガール(パン女)がある。

 

(6)一つの手話を多義に用いる場合

 

 政府(府庁、役場にも用いる)歴史(血統、伝統にも用いる)社会(商売にも用いる)など大体関係があるが音声言語では区別しているものも同一表現をとる。

 

 ただし、前後の表現関係で、今、音声言語のどのような意味で、それを用いるのかは、話手と聞手の間に理解が成立している。

 

 したがって、彼等は教育により、音声言語の方法に内語として習熟していて用いる手話と、全く手話のみしか知らな場合とでは、その意味は、自ずから大きく離っているわけである。

 

  「音声言語では区別しているものも同一表現をとる手話」について、音声言語と異なることを強調する動きに対して1950年代から「前後の表現関係で、今、音声言語のどのような意味で、それを用いるのかは、話手と聞手の間に理解が成立している。」「音声言語の方法に内語として習熟していて用いる手話と、全く手話のみしか知らな場合とでは、その意味は、自ずから大きく離っている」ということに熟考する必要がある。

 

 当時から、音声と異なったり、同一手話で多義性があることに対して日本語として認めないとか、言語として排除するとかのことがあった。

 

 手話の前後の表現で、同一の手話であっても異なった意味合いとして理解出来ることを述べているが、「ことば」そのものにも多義性があるにもかかわらず手話を偏狭に見ている人々への「反論」でもあったと言える。

 

 

 

漢字の表意を巧みにとり入れた手話  京都の手話

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「1954年手話冊子」第2章(2)-3 手話の成立 Ⅱ

 

  漢字を取り込んだ手話は数多い

 

(4)漢字から成立した手話

 

 首相(首をおさえて、長い)長い川(指三本を上下)田(指三本を田の字に組む)井戸(指二本を井の字に組む)などがある。

 

 このように単純に漢字の形態だけから、又その意味から、成立している手話も多い。

 

 漢字は象形、表意文字であるところから視覚に結びつきやすく、いきよい「手話」にも結びつきやすい。

 

 彼等は、一寸その内容が分からなければすぐ「漢字を書いてくれ」という。

 

 面白いのは漢字については知っていても、その読み方については至極あいまいだ。


 戦前の盲唖院やろう学校では、すべてカタカナから漢字での教育がなされた。

 

 この中から生まれた手話は非常に多いが、現在文部科学省がいわゆる「常用漢字」として、学習指導要領の改訂ごとに変化させているので漢字を受けとめた取捨選択した手話を理解できないようにさせられている。

 

 すでに述べたように京都の手話では、聞くと聴くは区別されて使われていた。

 

 さらに例をあげると京都では、「一生懸命」「脇見をしないで集中する」などの手話は、手のひらを両眼の横に置いて前に突き出す、という表現だった。

 

 この手話については、戦前のろう教育を受けた方々から馬具に由来していると言われて調べたことがあった。
 
 結果、遮眼帯であることが解った。馬を走らせる時に他の馬や状況に左右されないために「全能力を走ることだけ、前の方しか見えないよう作られた装具のこと」を表していることに由来していることが理解できた。

 

 手話は、ろう学校の先生が教えたのか、生徒たちが創り上げたのか定かでないが、馬具から取り入れた手話、ということは正しかった記憶がある。

 

(4)漢字から成立した手話   の「漢字については知っていても、その読み方については至極あいまいだ」という文章は、後の文章でも述べられているが漢字の表意を巧みに取り入れた手話に多くの知恵の結晶をみる。

 

蔑視こそ多くある時代にそれに手向かい粘り強い取り組みと運動がなされる「手話宣言」 京都の手話

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 手話を知らない人も

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 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

(3)事物の内容から抽象して成立した手話 

 

 の項目の説明はさまざまな意味に理解されるが、京都で1954年に「手話」として記録された冊子以降の京都の状況を思考すると1960年代や1970年代になって手話の飛躍的発達の基礎的思考が記載されていると考える。

 

  社会生活の拡がりの中で
 手話はろうあ者同士で創造
       過去の記録をたぐり寄せて

 

1,手話の「抽象的な表現形態」をとらず「その意味や内容も具体的であり思考活動も単純だ」「少しずつにでも自ら目覚めなければならないことに気がついている」とする傾向を社会生活の拡がりの中で膨大な言葉を採り入れ、手話をろうあ者同士で創造して行く。

 

 その過程を目の辺りにしながらそれを映像として記録できなかったことが残念でならない。

 

 現在ならないとも簡単にできる映像保存。その再現を試みて記録保存する時代を迎えている。

 

 このことが出来ないと未来永劫、ろうあ者集団の作り上げてきた手話は勝手な解釈と断定で拡がる。

 

 ろうあ者集団の作り上げてきた手話は、過去の記録をたぐり寄せて現在と未来へ伝達していかなければ、ろうあ者集団の作り上げてきた手話に籠められた知恵はもちろんあらゆる歴史が封じ込められる。

 

  音声言語を採り入れながらも
ろうあ者集団のコミュニケーション
としての必要生を説く

 

2,僕らは彼等が「口話法」による音声言語的思考の仕方を持ち得るようになることを、ろうあ教育の基盤として考えているのであって、「手話」は然し、一般の言語力をもった可聴者が、音声記号によらず、手話記号でもって、コミュニケーションにケーションを行うな状態を、その理想と考えるのである。

 

 という文章も口話法を単純に切り離して否定するのではなく「音声言語的思考の仕方を持ち得るようになることを、ろうあ教育の基盤」としながらも「悲しいことに「口話法」には「口話法」の限界があり」として手話の必要性を説いている。

 

 音声言語を採り入れながらもろうあ者集団のコミュニケーションとしての必要を説いている事項に思慮がもとめられる。

 

  可聴者が音声記号によらず
手話記号でもっての意味

 

 この文章の「可聴者が、音声記号によらず、手話記号でもって、コミュニケーションにケーションを行うな状態を、その理想と考える」という意味は、可聴者が「手話を学び」「手話でろうあ者と会話が出来るようになることをもとめ」、手話通訳者あ育つことを期待している。

 

 この1954年頃の京都には、手話通訳できる人が5人はいた。

 

  教育がろうあ者に保障されていない
    日本の国のありように

 

3,そしてその上で「この貧しい日本の国に、自分だけのために最善の環境の用意が許されるろう者が、果たして何人ありとするなするのだろうか。僕らは、ろうあ教育の理想を抱くのと同様に、この現実をも無視してはならないならないのだ。」

 

 とろうあ教育がろうあ者に保障されていない日本の国のありように目を向けている。

 だがしかし、それを嘆くのではなく「そういうコミュニケーションにケーションの間隙(注 かんげき)を補い、シンボル活動の手段としての「手話」を、研究していなければならないのが、残念ながら今に生かし得る僕らの仕事でもあるわけだ。」と決意をしている。

 

  手話研究と手話、手話通訳者の養成は、蔑視こそ多くある時代にそれに手向かい粘り強い取り組みと運動がなされる「手話宣言」と受けとめるべきだろ。