手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話通訳制度 がなければ作ればいい 1966(昭和41)年12月21日 京都府議会本会議

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 手話を知らない人も

               手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

1966(昭和41)年12月21日

           京都府議会本会議  京都府会議員質問

 

  手話通訳制度がなければ

        作ればいいじゃないですか

 

 しかし今日、福祉センターの機構は、その様になっておりません。
 
 K先生のしている仕事は、これは役所で云いますと、規定以外の事をやっているという事になります。

 

 ですから、ろうあ者の皆さんは、一人のろうあ者に一人の通訳を養成してもらいたい、これを制度化してもらいたい。

 

 役所というのは問題を持ち込みますと、すぐ、法律がどうだとか、規則がどうだとか、条例がどうだとか言います。制度が出来てないという事を云います。

 

 しかし、制度がなければ作ればいいじゃないですか、なぜこのろうあ者に対する通訳養成の制度化が遅れているのか。

 

 もちろん、一人のろうあ者に一人の通訳をつけるのには、若干の日時を要するでしょう。

 

 しかし、さしあたり出来る事は、府の地方事務所や、あるいは、民生安定所等は、当然ろうあ者を配置すべきです。

 

 そうして相談を、生活相談を受ける体制を確立する事が緊急の問題であると思います。
 
 ろうあ者は無能だ 能力がないと
      社会的にも排除されているが

 

 非常に差別が行なわれております。

 

 ろうあ者は無能だ、能力がないという事が云われて、社会的にも排除され、就職がらも除外されておりますけれども、ろうあ協会の会長をしておられるTさんは、京都市一級建築士です。

 

 それで職場の人々と手まねで会話をしながら勤務をしておられます。

 

 身体障害者の雇用促進法というのがあります。ー私は法律は嫌いですけれども、府の諸君は、理事者が、口をひらけば法律法律と云いますから申し上げましょう。

 

 その法律の中には、身体障害者の採用に関する計画を作制しなけりゃならんと、国や地方自治体は計画を作れという事が出ております。

 

 一体そういう計画がありますか。

 

 まず、京都府においてろうあ者を採用してはどうですか?

 

 京都においてはわずかに一名しかろうあ者が採用されておりません。

 

一人一人の基本的な権利を
とことんまで守りぬく事が私たちのつとめ

 

 そして今日、K先生の家が、ろうあ者にとっての、唯一のセンターになっております。

 

 なぜ、センターを作らないんでしょうか。

 

 センターを作るまでさしあたりは、勤労会館や職員会館、あるいは婦人会館を利用さして頂きたいというのが、皆さん方の要求です。

 

 ろうあ者が持っている能力を最大限に引き出し、そして、一人一人の基本的な権利をとことんまで守りぬくという事が私たちのつとめであるし、これの障害になるいっさいの制度、あるいは障害になる人がおるならばそれを乗りこえていくべきだと私は思います。

 

 

 

2000人のろうあ者にたっ二人の手話通訳者 1966(昭和41)年12月21日 京都府議会本会議

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手話を知らない人も

         手話を学んでいる人もともに

{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

1966(昭和41)年12月21日 

    京都府議会本会議  京都府会議員質問

 

  京都に二千人のろうあ者
   手話通訳者はたった二人

 

 ろうあ協会は創立されて、今年で十年になります。

 

 事務所は、ろうあ学校内という事になっておりますけれども、事務室もありません。

 

 NI先生やNN先生の教室が事務所という事になっております。

 

 専従者もおりません。

 

 今、ここで通訳して頂いておりますK先生は、福祉センターで課長をやっておられます。

 

 日本で有数な通訳の一人です。

 

 この京都に二千人のろうあ者がおり、協会の会員が六百人おりますけれども、通訳はたった二人です。

 

 この現状を皆さんはどう思います?

 

身体障害者に対する
府の行政は
メッセージを贈る 補助金を流すだけ

 

 今日までのろうあ者に対する京都府の行政というのは、一口で言いますと、補助金行政です。
 
 これはろうあ者だけじゃないです。

 

 盲目の人に対しても、肢体不自由(児)の人に対しても、身体障害者に対する府の行政というのは、メッセージを贈ることと、補助金を流す事だけです。

 

 この事が、さらにこのまま続けられていいでしょうか。

 

 ろうあ者の人々は耳もききこえないし、ものも言えない。
 
 電話をかけることもできません。バイクに乗る事もできない。

 

 今日たくさんの方がこうやって傍聴に見えておるのも、一人一人が電車に乗って、バスに乗って、連絡し、さそいあわせて見えてています。

 

 郡部からも見えております。

 

 地方事務所に行かれても、通訳、いないでしょう。

 

 選挙権もありながら、投票場へ行ってどういう扱いを受けるのですか、その意味では、異国の人と全く変わらない実情です。

 

福祉センターも
ろうあ者にとってはほとんど無縁

 

ろうあ者の結婚の問題、就職の問題、将来の問題、いろいろな事が個宅に持ち込まれている

 

 あるいは、ろうあ者の方々は云います。

 

 子供が病気の時に一番困るのは、病院に行って自分の気持ちがお医者さんに通じない事だ、もし、子供に間違った注射をされたら一体どうなるか…、この事が心配でたまらない、こう云っております。

 

 自主的な、自立的な生活が出来ない状態、しかし、基本的な人権というものは厳として存在しております。

 

 しかも今日、福祉センターがありますが、この福祉センターも、ろうあ者にとってはほとんど無縁です。

 

 つまり訓練が中心になっておりますから。

 

結婚の問題、就職の問題、将来の問題

いろいろな事が
 一人の手話通訳者へ

 

 ろうあ者の人々は、昼も夜も、このK先生の所へ行きます。

 

 二人の中の一人の通訳の先生です。

 

 自分の気持の通ずる先生は、K先生をおいてないんですから。

 

 勤務中でもK先生をたずねて行きます。

 

 夜、自宅に帰っても、K先生の家はろうあ者で一杯であります。

 

 そこで、結婚の問題、就職の問題、将来の問題、いろいろな事が話をされ、K先生はその相談にのっているんです。

 

 

1966(昭和41)年12月21日 京都府議会本会議 京都府職員の手話通訳

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手話を知らない人も

             手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

1966(昭和41)年12月21日

   京都府議会本会議 

京都府議会議長あてに三つの要請
本会議場において通訳をしてもらいたい

 

京都府会議員 質問

 

 今日この傍聴席にろうあ者の人々がーおそらく府議会始って初めてだと思いますがー傍聴席に見えております。

 

 ろうあ協会から三つの要請が議長あてに行なわれました。

 

つまり

。本会議を傍聴さしてもらいたい。
京都府立福祉センターのK先生を通訳として使ってもらいたい。
。K先生を本会議場において通訳をしてもらいたい。

この三点の要求が出ておりました。

 

 これは、きわめて基本的な問題であり、いろいろな論議はありましたけれども、府会の幹事会においてこのことが採用されましたことを、まず私は評価をしておきたいと思います。

 

一人のろうあ者に対して一人の通訳を

 

 つまり、ろうあ者の社会復帰であるとか、あるいは、リハビリーテーションであるとかいうことばが言われておる訳でありますが、社会復帰というのは、単に、社会の片すみにおくといことではなしに、一人一人のろうあ者の基本的な権利をとことんまで守るということが、リハビリーテーションの本質であろうと私は思います。

 

 ところが、今日までの京都府のろうあ者に対する行政は一体どうなっておりましたか。

 

 二千人余りのろうあ者が京都におられます。

 

 ものが言えない、耳がきこえないという状態で、その人々が今日求めているのは、

 

 一人のろうあ者に対して一人の通訳を要求しております。

 

 これは当然のことであります。

 

 就職の問題にしても、結婚の問題にしても、あらゆる生活相談の問題が、通訳を経ずして自分の意志が伝わらない、歌を歌うこともできないし、ものを言うことがでぎないというこの人々に対する京都府の行政は一体どうなっておりますか。

 

ええかっこしいはやめてもらいます
  口先だけの事は止めてもらいます

 

 私が今日、ここで問題にしようと思っておりますのは、

 

○ろうあ者の問題

○吃音者つまりどもりの人々
○原爆被災者の問題
サリドマイドの問題
○府立医大の問題

 

 この五つの問題を、私は理事者側に質問いたしますけれども、あらかじめはっきり、ここに らっしゃる知事をはじめすべての理事者に申し上げておきます。

 

 これは民生労働部の事であるとか、あるいは総務部の事であるとか、あるいは所管が違う企画管理部のことであるとか、衛生部のことであるというふうな理解のし方をしてもらっては困ります。

 

 一人一人の理事者が己の問題として始めから終りまでしっかり聞いてください。

 

 そうして知事をはじめすべての理事者が、私が今日おたずねする五つの問題について自ら責任を持ち、自ら解決をしていくという立場に立って答弁をして頂きたいと思うのです。

 

 ええかっこしいはやめてもらいます。

 

 口先だけの事は止めてもらいます。

 

 このことを私はまず申し上げておきたいと思うんです。

 

 

初めて京都府職員の手話通訳者が府議会議事場の演壇のすぐ横に立ち

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手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 未就学のろうあ者も含めたろうあ者も含めて京都のろうあ者の悲惨な生活を大きく変えていく取り組みの胎動は、1969年にあった。
 
 そして、それから急速にろうあ者運動は発展して行くことになる。

 

  立派な府議会議事場の想いで

 

 2011年6月以降。私は久しぶりに京都府議会図書館を何度も訪れ、1960年代から1980年代にかけての京都の障害児教育が、府議会本会議でどのようにとり上げられたかを調べに行った。

 

 議事録は公開されていたが、そのコピー代は情報開示の事務局に支払わなければならないという煩わしさがあった。

 

 しかし、この事務局は、旧京都府議会議事場にあり、手入れはまったくされていないが昔の立派な府議会議事場の面影を残していた。

 

 その後、大きく改修されたが。

 

二階の傍聴席から
 見渡せた京都府議会議場

 

 45年前にこの議事場で、京都のろうあ者問題の重要な転機になる出来事があったことを沸々と思いだし、手話通訳者はこの演壇の横に立って、手話通訳した。
 
 二階の傍聴席からろうあ者が府会議員や知事や関係部長などのやりとりを見渡せた、と思うと感無量になった。
 
 ろうあ者から何度も何度も聞かされていたので二階の傍聴席をしばらく見上げて佇んでしまった。

 

ろうあ者福祉を塗り替える
  画期的な出来事

 

 日本最初にろうあ者問題がとりあげられたのは、1962(昭和32)年7月10日福島県議会本会議

 

 京都はそれから4年おくれた1966(昭和41)年12月21日であった。

 

 しかし、京都において初めて京都府職員の手話通訳者が府議会議事場の演壇のすぐ横に立ち、ろうあ者問題が府議会本会議でとりあげられた点で歴史的な出来事であった。

 

 それは、京都のろうあ者の生活を大きく変え、それまでのろうあ者福祉を塗り替える画期的な出来事であった。

 

 

 

「とても不可能だ」と思われてきたことを可能にした あの「娘さん」

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手話を知らない人も

                    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  出会ったやろうあのなかま

 

 その時の聴覚障害者の施設いこいの村の所長は大矢さんだった。

 

 さっそく出会って大矢さんと話をした。

 

 大矢さんはにこにこして

 

「出会ったやろうあのなかま」

 

とすぐ言ってきた。

 

  この施設が出来て
いの一番にあの時のことを

 

 「この施設が出来て、いの一番にあの時のことを思いだして、……」

 

 大矢さんの話には喜びが溢れていた。

 

 「例の娘さん」は、いこいの村に入って次から次へと

 

「とても不可能だ」

 

と思われてきたことを可能にした。

 

 具体的にいくつもの例をあげながら大矢さんは説明してくれたが、出会った当時と比べても、信じがたいことであった。

 

 大矢さんも信じがたかったと言う。

 

 どのような障害であっても
 人間としての共通の発達のすじみちを
  通って自己を実現していく

 

 私は故田中昌人氏が1960年代初頭に発表した、

 

「障害のタイプによって発達のすじみちがちがうのではない。どのような障害であっても人間としての共通の発達のすじみちを通って自己を実現していく。このすじみちは偉大な学者といえどもとびこすことはできない。
 別のすじみちを通ることもない。
どんな障害をもっている人でもこのすじみちの中にある。
あなたも障害児の発達のすじみちを通ってきたのである。
ここで大切なことは人間はすべて同じ道を通っているのだということである。
つぎに大切なことは、同じ道を通るのだが、その人あるいはその人をめぐる諸条件によって、人間はだれしも、その道のどこかの曲がり角などで一休みしたり、もつれてとどまったりするのだということである。」

 

と言う言葉と意味を噛みしめ続けた。

 

 

 

自分の家以外にも家がある人々がいる社会がある 「なかま」であるろうあ者がいる

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手話を知らない人も

               手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 私は年老い過ぎて、娘も年老いた、これから先のことは考えるすべもない、とお母さんの「ことば」。

 

「なかま」であるろうあ者がいることを

 

 その「ことば」を胸に大矢さんと共にもうすぐ残されるであろう娘さんの状況を少しでも改善するために、自分の家以外にも家がある、人々がいる、社会がある、そして「なかま」であるろうあ者がいることを知ってもらい、娘さんの未来を切り拓く道筋を探し求めて大矢さんとお母さんに話し、私たちは奔走したが為すすべもなかった。

 

 「なにも出来ないのか」

 

「こんなことで人生が終わっていいのか」

 

「人間としての可能性がある」

 

「家だけの人生でお母さんが死んだら、娘さんは餓死するしかない」

 

と役所にあたっても、施設にあたっても、さまざまなところを探してもいつもどおりの「ない」「ない」ずくめだった。

 

 このような問題に出会う度、大矢さんと共に心の奥底に暗く重くどうしようもないほど苦さを共有した。

 

 それから数え切れないほどの時間のみが過ぎ去った。

 

人が来るとおびえていた面影は消え

 

 ある時、綾部にある聴覚障害者の施設いこいの村を訪れた。

 

 廊下を歩いていると忘れることの出来ないあの時の「娘さん」に出会った。

 

 昔の面影は残しながも表情は生き生きしている。

 

 聞けば、聴覚障害者の施設いこいの村が出来て真っ先に入所したとのこと。
 
 薄暗い家にじっとして、人が来るとおびえていた面影は消え去り、笑みが残っていた。

 

  あの「娘さん」にもなかまが出来た

 

 人とのコミュニケーションがとれるようになって手話も、読み書きも、自分の身の周りのことも少しずつ出来るようになってきていると聴覚障害者の施設いこいの村の指導員は言う。

 

 いこいの村では、施設に入った聴覚障害者を「なかま」と呼び合うことも聞いた。

 

 なかま、あの「娘さん」にもなかまが出来たのだ。

 

 

 人間の発達の可能性と推し量れない無限性を実感した。

 

 

家の中だけの人生 お母さんが死んだら餓死する

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 ある日のこと。
  京都ろうあセンター相談員大矢さんと同行して京都府下南部の小さな家を訪ねた。

 

  聞こえない
というだけでも肩身が狭いのに

 

 現在では見られなくなった南部の広い農村地帯。

 

 稲穂のなびく細いたんぼ道を大矢さんと探しあぐねて、ある小さな集落にたどり着いた。
 
 その集落から少し離れた所にポッンと存在しているある小さな家を訪ね、家に入ったとたん、サーッとひとりの人影が消えた。

 

 お母さんが出てきて話が始まった。

 

 お母さんと娘の二人暮らし。

 

 周りの家々との交流はほとんどない。

 

 いや閉ざされていた。

 

 聞こえないというだけでも肩身が狭いのに娘は、まともでない。

 

 身の回りも充分出来ないままお母さんは年老い、娘も年老いた、これから先のことは考えるすべもない、とお母さんは言う。そのことばの重い意味。

 

産んだ母親の細身に
    あらゆる事の責任が

 

 もちろん娘さんは「未就学」だった。

 

 生まれてからほとんど家を出ることはなかった、出来ないでいた、と言う。

 

 就学免除が生きていた時代。

 

 あらゆる事の責任がその子を産んだ母親の細身に投げつけられていた。

 

「なにも出来ないのか」

 

「こんなことで人生が終わっていいのか」

 

「人間としての可能性がある」

 

「家だけの人生でお母さんが死んだら、娘さんは餓死するしかない」

 

 お母さんと話していると、しばらくして恐る恐る顔を出した娘さんの顔は幼さの中に老いが混在した表情だった。