手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ある日のこと。
京都ろうあセンター相談員大矢さんと同行して京都府下南部の小さな家を訪ねた。
聞こえない
というだけでも肩身が狭いのに
現在では見られなくなった南部の広い農村地帯。
稲穂のなびく細いたんぼ道を大矢さんと探しあぐねて、ある小さな集落にたどり着いた。
その集落から少し離れた所にポッンと存在しているある小さな家を訪ね、家に入ったとたん、サーッとひとりの人影が消えた。
お母さんが出てきて話が始まった。
お母さんと娘の二人暮らし。
周りの家々との交流はほとんどない。
いや閉ざされていた。
聞こえないというだけでも肩身が狭いのに娘は、まともでない。
身の回りも充分出来ないままお母さんは年老い、娘も年老いた、これから先のことは考えるすべもない、とお母さんは言う。そのことばの重い意味。
産んだ母親の細身に
あらゆる事の責任が
もちろん娘さんは「未就学」だった。
生まれてからほとんど家を出ることはなかった、出来ないでいた、と言う。
就学免除が生きていた時代。
あらゆる事の責任がその子を産んだ母親の細身に投げつけられていた。
「なにも出来ないのか」
「こんなことで人生が終わっていいのか」
「人間としての可能性がある」
「家だけの人生でお母さんが死んだら、娘さんは餓死するしかない」
お母さんと話していると、しばらくして恐る恐る顔を出した娘さんの顔は幼さの中に老いが混在した表情だった。