手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校の子どもたちの率直な人間性が 私自身の誤りと反省を

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
        {特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

  手は一切使わない 全部口でお話し

 

‥‥‥(口話法では)手は一切使わないで、全部口でお話し。それ徹底されて、目で見て唇の動きで言葉が判断できる、コミュニケーションが成り立つ、と考えられてた。

 

 聞こえる教師がそのように判断しとったわけです

 

  口形をみてすべてを判断する

 

 子どもが目だけで口形をみてすべてを判断するということはまさに至難の業で、いやとても出来ない。

 

 目が非常に疲れてくる。

 

 そうすると子どもは嫌がって授業から逃げだそうとする。

 

 それを引きずり込んでできてまたやろうとする。

 

 また子どもは逃げだそうと、結果、教室に鍵をかけて逃げ出さないようにする。

 

 逃げてたら昼ご飯抜き。

 

 あるいは叩いてみたり。

 

 逃げ出さないで授業をしている子どもには、あとでおやつをわたす。

 

  条件付けと動物園や鵜飼

 

 条件付け。


 ともかく言葉、言葉。

 

 動物園や鵜飼いなどをみると親も教師も思い出す。

 

 聾学校口話法。

 

 教師が子どもを操って、吐かせる。

 

 口の動きを読んで、子どもが立っと、よろしい、とあめ玉を1つ口へぽんと放り込む。

 子どもはうれしそうに座る。

 また隣の子に。

 

 これがろう教育だと信じ込まされていました。

 

  これで言葉が覚えられるものだろうか

 

 私自身非常に疑問に思ったんです。

 

 これで、言葉が覚えられるものだろうか。

 

 聾学校では絶えず言われていた「ままご と たばこ」の口形。

 

 この違いを教える。

 

 そういう教育がずっと続けられ、算数、国語、社会、理科、体育みんなこれでやる。

 

 本当に子どもたちは大変だったと思います。

 

 子どもたちに一方的な押しつけ教育がろう学校の主な流れとして形成されてきましたが。

 

 教育とは何か、私が思うのは教師がやっている教育は、

 

 勝手なことを自分の物差しで子どもを測って、

 

 その物差しからはみ出た子どもをペケとしていくのではないか。

 

 物差し内でちゃんと動いたり。時間内にやってくれた子どもは丸。

 

 こういう一面的な単純な評価の仕方でしか子どもを見ることが出来ていない。

 

 私自身をその誤りを反省させてくれたのは、ろう学校の子どもたちの率直な人間性だと私は今思っています。‥‥‥

 

 

 

 

ろう学校 では 手話が禁止 されていないとハッキリ言える 思い込んでいる人の頑なさ理解出来ない 長く教育行政の仕事にも関わったからこそ 

 

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
          {特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

ろう学校では手話を全面的に禁止
    と思い込んでいる人が多いが

 

   故藤井進先生が、1952(昭和27)年、京都府教育委員会の採用試験に合格して、学校長の面接を受け、 教師二人、寄宿舎寮母一人の三人が採用され、その時、ろう学校長から「手話を覚えて欲しい」といわれたことについて、ろう学校では手話が禁止されていたはずだからそういうことを京都ろう学校長が言うはずがない、とか、京都だからそうなんだろうとか、ろう学校では手話を全面的に禁止していたかのように思い込んでコメントされる人が多い。

 

 だが、ろう学校長が3人の教師に「手話を覚えて欲しい」と言ったことは事実として報告された、

 

ろう学校では手話が禁止されていた
 と思い込むことが理解出来ない
 
 藤井進先生が話されて以降、多くの人々がろう学校では手話が禁止されていたと断言するので、再度確かめてみた。

 

 が、ろう学校長が3人の教師に「手話を覚えて欲しい」と言った、ことは間違いがないという話だった。

 

 逆に、なぜ多くの人が、多くの人々がろう学校では手話が禁止されていた、と思い込んでいるのか、その頑なさが理解出来ないとも言われた。

 

 たしかに京都ろう学校では口話法の流れが主流になりつつあったが、かといってそれが教育制度として決められたものではないし、これでないとダメだと教育委員会や校長が伝達されたことは一度もない。

 

 指導主事になって
長く教育行政の仕事にも関わったが
  手話はダメだ、口話でないといけない
 とする公的な指示や文章は一切ない

 

 さらに、1965(昭和40)年11月18日京都府立ろう学校で授業拒否事件以降京都府教育委員会の指導主事になって長く教育行政の仕事にも関わってきたが、手話はダメだ、口話でないといけけない、とする公的な指示や文章は一切なかったし、教育委員会内部でもそのようなことが話されたことはない。

 

 口話でやりなさい、と強いられることはなかったし、教育委員会がそのような指導をろう学校にする法的本拠は一切ない。

 全国的にそうでした。

 

 口話でやりなさいなどのことを指示すれば、教育基本法10条(当時)違反になる。ことは明らかでしたから。

 

盲のほうが聾より上とする考え

 

 京都盲学校は戦時中、京都府庁前から移転された。

 

 だが京都聾学校は移転されずにそのままで放置。

 結果的に閉鎖。

 

 多くの生徒が、聾学校で学べないという残念な事態になったが、当時の状況を考えても、盲と聾、に対する国や行政の考えが明るみになるでしょう。

 

 盲のほうが聾より上。

 

 この歴然とした障害者間を離反し、差別する考えはあった。

 

手話でほほえみながら
 帰宅する子どもたちと

 

‥‥‥戦後、御室の山ー御室仁和寺の裏に京都聾学校ができそのときに私が赴任したのです。

 

 その時初めて目にしたのが子どもたちの姿でした。

 

 手話でほほえみながら御室の山から降りてくる子どもたち。

 

 これが聾学校の子どもたちなんだなと。

 

 それからその子どもたちともう30何年以上の付き合いをしている。

 

手話を覚えたことは
 今でもよかったと思い続けている

 

 いまでも、よかったなと思いますのは、その手話を覚えたということでした。

 

 当時は口話法というものが教師の間で次第に強く叫ばれていましたが。‥‥‥

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 参照  ろう学校で手話が全面的禁止ではななかった!!

http://sakukorox.hatenablog.com/entry/2017/12/11/200101

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ろう学校の教師 が 子どもの言っていることがわからへんと言うわけ

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
                 {特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

恨みを蓄積されてもキッパリ言う勇気

 

  藤井進先生が語った、
「うちの嫁はんが責め立てる。私は高校の教師と結婚したんで、ろう学校の教師と結婚したんではない。」「ろう学校の教師をしているんやったら、私は離婚します。」と言われる。責められる。普通の高校に出すようにしてくれ。
「なんでそんなこと言うんや」と言い、「それはろう学校の生徒に対して差別していることになる。」と大げんかになった、と。

 

このこと は、後々恨みをかいそれが蓄積されていく。

 

それはそうだろ、

職員室の机の下に一升瓶を置いたり、ウイスキーの瓶が転がってたり、宿直で麻雀している先生などたくさんいた、学校の周りの畑に先生が、ネギとりにいって、すき焼きする、ことがまかり通る状況の中で常識的な意見を出しても多数の教師がそのようなことをしていたのだから批判意見を持つ教師は露骨に疎まれた。

 

  疎まれるのがイヤな教師は見て見ぬする。

 

 でもこのことが京都ろう学校で1950年代に許されていたのはなぜだろうか。

 

子どもたちがわかるように
  子どもが言っていることを

  わかろうとしない

 

 ろう教育に対して、子どもに何言ってもわからへん、子どもの言っていることがわからへん、と言いながら、それを口実に何もしない教師たちはろう学校での日々を怠惰にこなしていた。

 

 子どもに何言ってもわからへん、子どもの言っていることがわからへん、と言うなら、子どもに言って子どもたちがわかるようにする、子どもが言っていることを分かろうとする、のが当然で、常識的なことだろう。

 

 子どもの言っていることが分かる、教師の言っていることが子どもに分かる、この常識的な相互作用がろう教育の中で成立していなかったのは明白だった。

 

教師が何もしないでいいのだとする
   暗黙の了承と経済的理由
 
 教師が教えても、子どもたちは分からないし、子どもたちが言っていることが分からない、どうしようもないのだという口実は、教師が何もしないでいいのだということを暗黙の了承を得たとするものであった。

 

 1950年中半以降、さまざまな運動の反映として特殊教育に携わる教員の待遇は大きく改善されてきた。

  定員・給与もそうであるが、その中でも意外に知られていない特殊教育額について少し述べておきたい。

 

 この特殊教育額は、「心身の障害を持つ児童・生徒の教育をつかさどる、勤務の特殊性を考慮」として基本給与× %ということで年々改善された。(現在は大幅に削減されているが)

 

 すなわちこの手当は一般的な公務員に支給される手当ではなく、基本給に組み込まれたもので、後でつくられる教育調整額と含め生涯賃金に換算すると他の普通普通教育に携わる教員と比べると大きな差がついた。

 

 給与、賞与、退職金、共済年金

 

  ろう学校の教師は
普通学校の教師よりはるかに多い収入が

 

 ろう学校の教師として、努力をしないで、「子どもに何言ってもわからへん、子どもの言っていることがわからへん、」と言い続ける限り普通教育に携わる教師よりも多くの給与を受け取ることが出来たのである。

 

 このことが基礎にあることが意外に知られていない。

 

 ろう学校の教師を続けていたらはるかに多い給与を受け取ることも出来たし、退職金、年金もより多く得られたのである。

 

 ろう学校の教師を辞めて府立高校に異動したいと言いつつも、内実、異動しなかった教師が少なからずいた背景にはこのような経済的理由があったことを見逃してはならないだろう。

 

ろう学校から出してくれ 出れなかったら離婚される 障害者差別がまかり通る時代

 

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
       {特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

先生が畑でネギを盗みすき焼き

 

 藤井進先生は、新採でろう学校教諭になった頃を振り返り、貴重な事実を語ってくれている。
 
 この事実は、ろう学校の教育やその後京都ろう学校で起きた生徒の「授業拒否事件」を知る上で重要な意味を持っている。

 

 学校教育の場で、教師はさまざまにつぶやき不満を述べたり、他を批判して自己を浮きだたせようとする動きのなかで、淡々と事実を述べている。

 

‥‥‥  1952(昭和27年)新採で行った頃のろう学校は、府庁前から御室の仁和寺に移転したばかりの学校でしたが、と思うほど「荒れはてていた。」

 

 職員室の机の下に一升瓶を置いたり、ウイスキーの瓶が転がってたり、宿直で麻雀している先生などたくさんいた。

 

 学校の周りの畑に先生が、ネギとりにいって、すき焼きする。

 

 校長が

 

「ネギ取りに行くな」

 

というそんな時代。

 

ろう学校の生徒は
 何言ってもわからへん
  子どもの言っていることがわからへん

 

 無政府状態の学校。

 

 背景にあったのは、障害者差別でしょうね。

 

 子どもに 何 言ってもわからへん。

 

 子どもの言っていることがわからへん。

 

  ろう学校から出してくれ
  ろう学校の教師をしているなら離婚

 

 ろう学校の先生の中でも私が分会長してた頃に

 

「ろう学校から出してくれ。出るようにしてくれ。」

 

と先生が言ってきた。

 

 「なんでや」

 

って聞いたら、

 

「うちの嫁はんが責め立てる。私は高校の教師と結婚したんで、ろう学校の教師と結婚したんではない。」

 

「ろう学校の教師をしているんやったら、私は離婚します。」

 

と言われる。

 

責められる。

 

 普通の高校に出すようにしてくれ。

 

「なんでそんなこと言うんや」

 

と言い、

 

「それはろう学校の生徒に対して差別していることになる。」

 

と大げんかになった。

 

京都府教育委員会差別的人事
 差別発言の連発の中から

 

 子どもの前で、つんぼが…つんぼが……府教委もそのようなことも言っていたし、そのような考えでした。

 

 府教委と交渉があったとき、

 

「役にたたん教師が居るから異動させる。」

 

という府教委に

 

「不当転勤や」

 

と言うと、

 

「そんな教師は、めくらか、つんぼの学校でいいいんや」

 

と人事担当が言う。

 

 それで、怒って「差別発言や」「撤回せ-」言って。‥‥‥

 

 

 

お金がないからろう学校にやれない 畑作業をする でないと 生きていけない

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

  1951年(昭和26年)からの藤井進先生は、ろう教育に率直に取り組みながら、その教育の範囲をろう学校に留めなかった。

 

 新採教師として、他の教師がやろうともしないで「押しつけられ」た重複学級の教育とその教育内容の創造に取り組む。

 

 ろう学校の教育の合間に何をしたのか、藤井進先生は次のように語った。

 

ろうで重複の子どもが「座敷牢にいる」
 
‥‥‥丹後の網野町(当時)にろうで重複の子どもが「座敷牢にいる」という噂が福祉関係者か、いろいろな話が入ってきて、「それじゃ、様子を見に行くように」と言われて、見に行ったことがありました。

 

 山奥の家に行く
学校に入れるようにするそれは教師の仕事

 

 瑞穂町(当時)山奥に女の子が学校に行かないで居るとか。連絡が来る。

 

 親に会って、学校に入れるようにして来るように、と言われて山奥の家に行くとか。それも教師の仕事でした。

 

朝夕の1回のバスの乗ってたどり着いた家
  家族と一日話し合って  ろう学校へ

 

 園部から国鉄バス(当時)が一日1回か、二回ぐらいしかでていない。

 

 朝、に行って夕方までその家に居らんと帰れないと言うほどのと遠いところでした。

 

 その子は、寄宿舎に入れて ろう学校で学べた。

 

 お母ちゃんが喜んで……そのお母ちゃんと今でも連絡を取り合っています。

 

  「隔絶」されていた
  ろうの子どもたち在宅、不就学。

 

 昔は、ろうの子どもたちは、「隔絶」されていた。

 

 在宅、不就学。

 

 その頃、就学奨励法という法律が出来て、学校の給食費、学用品などなどの援助がされるようになった。

 

 それまでは、法的援助がなかった。

 

生きていく限界の生活
 お金がないからろう学校にやれない

 

 親はお金がないからろう学校にやれない。

 

 畑作業をする労力としてその子らを、でないと生きていけない。
 
 話も、手話も通じない。

 

  初めて教えた言葉は「パン」
   お腹押さえたら「おしっこ」

 

 初めて小学部1年生に入ったその子は、初めて教えた言葉は、「パン」。

 

 「パン」は、給食。

 

 お腹押さえたら「おしっこ」。

 

 これだけは覚える。

 

 教える。

 

 そういう「身振り」を教えてくれたのが、高等部の重複学級で教えていた伊東先生。

 

 その頃、伊東先生だけが、身振り、手振り、手話が出来た。

 

 その後、聴覚障害の西田一先生が、医大中退・他の大学に行き、でろう学校の教師としてやってくる。

 

ろう学校で出会った子どもたちが
 60歳を超えたが
今でもお互いに昔のことは忘れない

 

 その頃教えた子どもらは60歳こえているけれど今でもつきあいがある。

 

 昔のことを忘れない人々で、健聴者のほうが水くさいと思う。

 

 卒業したらさいなら。

 

 京都府聴覚障害協会(昔ろうあ協会と言っていた)の老人部の集まりが毎年新年会としてある。そこで昔教えた子たちと出会う。

 

 いつも呼んでくれはる。

 

 そこで話すことはいつも京都府下のみんなに会えて友達になれたのは、ろう学校があったからや、って言わはる。‥‥‥

 

 藤井進先生は、淡々と語っていた。が、しかし、京都府下を駆け巡り子どもたちがろう学校に通える、学べるようになった経過の信じがたい苦労は笑顔で打ち消していた。

 

 ひとりの子どもがろう学校で学び成長する。

 

 その喜びのほうが、はるかに大きかったからであろう。

 

  健聴者のほうが水くさいと思う、このことばの中にろう学校で学び育ったろうあ者やろうあ協会からの教訓を胸に織り込んでいたように思える。

 

 

 

ろう教育 に 「厄介」「面倒」「邪魔」ということは一切ない

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

ろう学校に赴任してすぐ
重複学級の担任 人生を決定づけた出会い
 

 京都ろう学校は戦時中の多くの問題を残しながらも1951年(昭和26年) 京都左京区御室仁和寺の現在の校地にに移転した。

 

 京都ろう学校移転後の翌年に藤井先生は、350人の生徒が在籍する京都ろう学校に赴任したことになる。

 

 藤井進先生は語った。

 

‥‥‥ ろう学校には先輩方がおられて学んで行ったという状態です。

 私は、小学部と中学部の重複学級教えていました。

 重複学級は、学校全体から言えば数名でした。

 350人のろう学校の生徒。

 小学部が一番多くて、学級156人。‥‥‥

 

  小学部が一番多くて、学級156人という人数は、1952(昭和27)年4月の京都ろう学校の状況を示しているがその生徒たちの様子は同一学年同一年齢でなかったのは言うまでもないことだろう。

 

  希望する子どもたちが
 聾学校に通えていなかった

 

 戦前、戦後を通じてすべての子どもたちが学校に通えたわけでない。

 

 京都聾学校は全国に先駆けてつくられたとされているが、希望する子どもたちが聾学校に通えたわけでない。

 

 ろう学校が義務制になっても。

 

 戦災から生き残った生徒たちがなんとか学ぼうとして聾学校の門を駆け抜けた。

 

 それを受けとめたため京都ろう学校の生徒数は、小学部だけでも156人という大人数だったのである。

 現在の京都ろう学校小学部の人数うから考えてもとてつもない人数だったのである。

 

 ここでも藤井進先生らは多大な努力をする。

 

経験主義的で徒弟制度が色濃いろう教育
 ろう学校の生徒に見合った教育が

    されていなかった

 

 藤井進先生が語った「ろう学校には先輩方がおられて学んで行ったという状態」「小学部と中学部の重複学級」を担任したということは次のようなことを包括している。

 

  先輩方がおられて学んで、と謙虚に話されているが以降に語らるように当時のろう学校の教育内容は、経験主義的で徒弟制度が色濃くろう学校の生徒に見合った教育がされていたとは言いがたかった。

 

 経験主義を振りかざす先生の基で、内心疑問を抱きながらもそれを克服する教育力量を切望し、切磋琢磨していたことが、「先輩方がおられて学んで」という意味である。

 

  「厄介」「面倒」「邪魔」な存在として
 考えられていた重複学教の子らとともに
 
 同時に当時の京都ろう学校では、ろう以外にさまざまな障害や病気を持つ子どもたちは、「ろう学校には先輩方」にはとても「厄介」「面倒」「邪魔」な存在として考えられ、新任教師の藤井進先生にその任を任せるが、藤井進先生はそのことに疑義は持たず、子どもが好きだ、ということでさまざまな工夫と創造した教育実践を試みる。

 

 このことが、日々、すべての子どもにひとしく教育を、という京都の教育に合流し、藤井進先生の人生を決定づける。

 

 

 

ろう学校校長 手話を覚えて欲しい と新任教師全員に頼む   1952年

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

   京都ろう学校生徒の「授業拒否事件」を全面的に支持し行動した故藤井進先生らは、京都ろう学校の教師の対立を激化させることになってしまう。

 

 生徒の見方をして教師批判を受け入れるのか、など故藤井先生らへの感情的批判は陰に陽に強まり、京都ろう学校の教師が一堂に集まる機会は激減した。

 

 顔も見たくない、と言う動きも出てきて同一敷地内のろう学校で1年間一度も顔を合わせることがないようにする教師もいた。

 

教師として当たり前のことをしたまで、と
 言い切る深い想い
 
 教師として当たり前のことをしたまで、と京都ろう学校「授業拒否事件」の教師としての自分自身を振り返り、言い切る故藤井進先生の想いは深い。

 

 その想いを振り返ってみる。 

  

憲法教育基本法にうたわれている
教育の機会均等の理念の空洞の具体化

 

 文部科学省は、1947(昭和23年3月31日)の学校教育法制定以降、戦後の特殊教育諸学校の義務制実施を憲法教育基本法にうたわれている教育の機会均等の理念の具体化の一つとしている。

 

 この憲法教育基本法にうたわれている教育の機会均等の理念の具体化という背景には重大な問題があった。


 なぜなら教育の機会均等の理念の具体化の「具体化」が放置されたままだったからである。

 それは、文部省の特殊教育諸学校に対する軽視、いや否定的な傾向があったことは事実として思考していかなければならないだろう。

 

 1948( 昭和23)年度に学齢に達した盲児・聾児について、盲学校、聾学校への就学を義務づけ以後学年進行で就学義務の学年を進めていくという盲・聾学校の義務化がなされたとしている。

 

 この盲・聾学校の義務化の学年進行中に青年教師として故藤井進先生(以下 藤井進先生)がろう学校に採用された。

 

教員採用時のろう学校校長の質問 

     「子ども好きか」


 1952(昭和27)年、藤井進先生は大学卒業後京都府教育委員会の採用試験に合格して、学校長の面接を受ける。
 その時、面接をした校長はろう学校の校長であったが藤井進先生はそのことをまったく知らなかった。

 

 彼のろう教育に関わる切っ掛けとして今だ新しい記憶であるとして以下のようなことが伝えられた。67年も前の出来事である。

 

 話によると、

 

‥‥‥ ろう学校の校長に
「子ども好きか」
と聞かれて、
「好きです」
と答えたら

「ほな明日からきてくれ」

 

と言われて行ったらろう学校やった。

 

教師二人、寄宿舎寮母一人の三人の採用でした。‥‥‥

 

ろう学校赴任 すぐにろう学校校長
  「手話を覚えて欲しい」

 

 藤井進先生がろう学校に赴任してすぐろう学校長から

 

‥‥‥「手話を覚えて欲しい」‥‥‥

 

と言われたと話されている。

 

 その後、藤井進先生は生徒は未就学のろうあ児・ろうあ者との出会いの中で手話を覚え、手話通訳をし、京都市認定手話通訳者の最初の一員となっていく。