手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
京都ろうあセンターから国鉄(現在のJR)で綾部まで行くと、時間だけでなく交通費も多くかかった。が、園部大橋と綾部大橋のバス案内を聞き違えたのは、聞こえる手話通訳者の責任である。
当時ろうあ協会の会計担当だったCさんがカンカンになって怒って高圧的に二人を叱った。
聞こえているのに何をしていたのだ
聞き間違えるほうが悪いのだ 自腹で払え
間違うことがダメで、ろうあ者の手話通訳者としては失格である。
聞こえているのに何をしていたのだ。
聞き違えたからタクシーで追いかけた?それでタクシー代を支払え?
そんなものでろうあセンタ-からタクシー代は出せるもんか。
「聞き間違えたのは理由にならん。」
「聞き間違えるほうが悪いのだ。自腹で払え……」
タクシー代は千円にも満たない少額だった。だが2万円も満たない薄給だった二人にとってとてもイタイ自腹になる。
僕が聞こえていたら
やはり同じことになっていた
そこで、大矢さんは、
「もしも僕が聞こえていたら、やはり同じことになっていただろう。一人の場合は、行き過ぎたら困ると思って眠れないが、聞こえる手話通訳者が居たから安心して眠り込んだんだ。」
「タクシー代は認めてほしい」
と言った。
しかし、ろうあ協会の会計担当のCさん、
「まちがう二人が悪い」
と言いつづけた。
わかり合える経済状況
でないがゆえんに理解ではなく
そのため、「その話はそうかもしれないが……」と二人で言いつつ、神経を張り詰めて綾部で深夜までろうあ者の相談にのり、働いてきた状況も理解してほしいと言い続けた。
ろうあ協会としては厳しい台所状況を抱え、相談員も手話通訳者も薄給の中での矛盾が「激突」した。
ろうあ協会の会計担当のCさんも小企業で働きつつ低賃金で大学の通信教育を受けて学んでいた。
お互い苦しい生活をしていたから、わかり合える経済状況でないがゆえんに理解ではなく感情的対立が増幅した。
Cさんからしたらそんな甘いこと自分の職場では認められるか、と言う気持ちもあった。
憎しみがの頃ながらも、他の人の取りなしで結果的にタクシー代は認められることとなった。
物理的・精神的疲労の積み重なりの上での「聞き違い」。コミニケーション問題で大きな課題に取り組んでいたろうあ協会だから、今回のような「聞き違い」は理解してもらえるだろう、とタクシーの中で話したことが逆であったことに大矢さんも私も落胆した。
夢だに思わなかった
Cさんからの謝り
このことがあってCさんへの腹立ちはおさまらなかったが、その後、Cさんが謝ってくるとは夢だに思わなかった。
多くの月日が経ってCさんの人生にとって重大な問題が生じた。
その時、私はろうあセンターの職員ではなく、教師として教育の仕事に就いていた。