手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ものごころがつかないうちに不妊手術がされていた、盲腸の手術といって病院に連れて行かれたのが、不妊手術だった。
お母さんが悪かった!!
許して!!の絶叫から
お父さんやお母さんは、私を騙した。
荒れる怒りの中で両親もろうあ者も涙をとめることが出来なかった。
お母さんが悪かった!!許して!!
絶叫は多くのろうあ者の家庭で広がった。
だが、このことは単にあるろうあ者の個人的なことではないことが1969年の京都ろうあセンター設立によって点から面の問題であり、その根底には、障害者への蔑視、不要論だけではなく人間に優劣を貼り付けていたことから来ることがみんなが学習する中で解りかけてきた。
断種と軍備強化の歴史に
だが待てよ、でも、とろうあ協会
人間に優劣をつけて、優遇するものと、うち捨てるものをつくる思想。
「優生学」が戦争と結びついて極端に歪められ、断種することが当然のこととされてきた歴史。
そして、それが、国家財政や行政財政の負担をなくし、その費用が軍備にまわされたことも知ることになった。
ろうあ協会ではそれに対する理解の程度のあはああっても、優生保護と不妊手術の基底にある問題は敏感に捉えることが出来るようになっていた。
だから、「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」と言い切る京都府幹部の話が出された時、多くのろうあ者がその背景にある考えに爆発した憤りをしめした。
が、だが待てよ、でも、とろうあ協会の中で激しい議論がなされた。
1969年のろうあ協会の話し合いは現在から見ても、怒りが先走るのを押さえて人間性を求めたとても大切な話し合いだったと思う。
優生保護法による不妊手術(断種手術)は、手術された当事者や家族や親類だけの問題とされ、それを近しい人々の争いごとだったとされて過去の歴史が容認されて来たように思う人もいる。
だが、これらの事は過去のことではない。
そこで近年の一例を挙げておきたい。