手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
京都市は全国で初めて専任手話通訳者を採用したが、その身分は嘱託だった。
このことに対してろうあ協会は、京都市の自治体が市民生活を保障する点でもその身分を正規職員とすべきでないかと京都市に激しく詰め寄った。
同時に過去の経験から働くものの権利を守るという事から京都市職員労働組合に申し入れ話し合いを持った。
京都市の中二つの意見の対立
これらの動きの中で京都市の中で、手話通訳を採用したからこれでろうあ者の施策はお終いになるのになぜまたいろいろ言い続けるのか、いや今まで何もしてこなかったからこれを契機にろうあ者福祉をすすめるべきだ、という二つの意見が対立しながらもろうあ者福祉充実の方向へと傾いていく。
得がたいビデオカメラと録画機の寄付
旧ライトハウスで仕事を始めた1968年。
椅子も机も何もない中でコップや皿を初めみんなが出し合ってなんとかろうあセンターを維持しようとしていた。
企業倒産で争議し続けた労働組合が会社から保障の代償として得た事務机などなど事務作業に必要なものをわざわざ運んで使えるようにしてくれるなど、思わぬ支援の輪が広がった。
ライオンズクラブからの寄付の申し入れがあった時、相談して当時とても高価で手に入れる事の出来ないポータブルビデオカメラと録画機を寄付してもらった。
白黒のビデオテープであったがろうあ者の生活や集いを録画してみんなでみて喜びを共有しあった。
だが、とても残念な事にこの白黒のビデオテープはとても高価で再生し、録画するとそれまでの録画が消えてしまった。
なんとか、記録を残したいという想いがあったが白黒テープはとても高価で買えなかった。
あの録画が今残っていると1969年以前のろうあ者の生活全容が解るのに残念でならない。
思わぬ難問 旧ライトハウスの改装
京都市は、ろうあ協会の要求を受けて旧ライトハウスの改装をすると言ってきた。そして、実際に旧ライトハウスの改装をどうするのか、話し合った。
そこには、思わぬ難問が待ち構えていた。