手話 と 手話通訳

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ろう学校高等部 にある 限定的閉鎖的な考え を打ち破る教育の展望

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            村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 さらに、村上中正氏の1971年試論では、
 村上中正氏は、難聴学級に「不許可になった生徒T」のことをさらに次のように書いている。

 

  職業科のほかに普通科を設けてほしいという要求

 

 学習上の困難は大きいが、「今後も続けていく」と、月に一、二度は聾学校を訪れ、仲間たちと話し合っている、と、このことは、氏が生徒たちと充分意思疎通が出来、信頼関係にあるから知えたのだろう。ろう学校の教師は、この時代も現在も生徒との意思疎通が充分出来ているとは思えないことが見受けられるから敢えて記述しておく。

 さらに村上中正氏は、ろう学校中学部から高等部に進級した生徒が、生徒集団は、さきに「能力別」学級編成を廃止させたが、ついて昭和四四年度末(注 1970年2月・3月頃)には高等部への教育要求を出すようになった。

○デザイン・工芸・色染・被服だけでなく、もっと多くの「科」を作ってほしい
○職業科のほかに普通科を設けてほしい
○もっと基礎学力をつけてほしい
○実習の時間もあっていいが、基礎学力をつけるための時間をふやしてほしい

 

 こうしたねがいに、教師集団(注 高等部の教師たち)は、「後期中等教育の保障」と普通科設置について検討を始めた。しかしこのような生徒集団や親たちのねがいを具体的に実現する態勢は、まだ整備されていない。

 

  職業科のほかに普通科を設けてほしい
  という生徒の要求の背景にある可能性の追求

 

 生徒たちの教育要求と高等部の教師たちとの対応は、極めて微妙な文で綴られている。
 
  ○職業科のほかに普通科を設けてほしい という生徒の要求には、自分たちの進路や人生がろう学校高等部の職業科で「規制」されることへの「不満」と教育の平等要求から産まれてきていることを村上中正氏は承知していたのだろう。

 

 普通科設置は、必ずしも「普通教育」への要求ではないが、永く生徒たちの間で沸々と湧き出でていた要求であったとも考えられる。

 1965年の京都府立ろう学校授業拒否事件を中学部の生徒たちはなぜかよく知っていてその内容を受けとめていたのではないか。
 と書かれている。

 

ろう学校の教育の内容
 生徒の可能性を限定していないかどうか

 

 ろう学校における手話の導入になどはさまざまに意見が出されている。しかし、ろう学校の教育の中味について触れられることは少ない。

 

 コミュニケーションとしての手話で、授業が展開されればいい、とだけ主張しているようにも思える。

 

 この記述が書かれた以前には、京都ろう学校高等部には、職業学科のみが置かれてきていた。

 

  この背景にある考えには、高等部では社会に出たときに生活に困らないように職業技術を身につけさせなければならないとする社会適応、職業適応の考えが濃厚にあったことは否定出来ないだろう。

 

 そのため1970年代以前の京都ろう学校の卒業生で、専門学校、短大、四年制大学に進学する生徒は極めて少なかった。

 

 大阪と京都を比較してもそのことは明らかであった。

 

  ろう学校生徒の能力限界
      を根底的に打ち砕く

 

 職業学科のみに限定する考えの背景にあるろう学校生徒の能力限界に対する考えを根底的に打ち砕く要求が、職業学科以外の学科も、と言う背景にあったのだろう。

 

 村上中正氏らは、高等部=後期中等教育の限定的閉鎖的な考えを教育制度からも打ち破っていったのである。