手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

部落差別、結婚差別、ろうあ者差別が織り籠められた大問題にろうあ協会取り組む

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

京都ろう学校高等部の授業拒否事件から4年後、1969年に結婚を誓い合ったろう学校の卒業生が、親の大反対を受ける。

 

 それまで、好意的であった親が大反対した訳を調べた友人たちとろう学校の教師がその理由を知って慄然とする。

 

  教師 結婚する相手の家族構成、家柄
  転居し続けた居住地まで詳細に言う

 

 卒業生の親が、ろう学校高等部の教師に結婚する二人のことを相談に行く。

 そのときから親の態度が急変する。

 

 教師は、親に結婚する相手の家族構成、家柄、転居してきた居住地まで詳細に言いつつ、結婚する相手の出自をほのめかした。


 それを聞いた親は、態度を急変させた。

 

  部落差別、結婚差別、ろうあ者差別が

   織り籠められた大問題

 

 部落差別、結婚差別、ろうあ者差別が織り籠められた大問題であった。

 

 京都のろうあ協会と多くの人々がこの問題に取り組み、差別の不当性と差別をなくし平等に生きる方途をすすんだ。

 

 ろう学校高等部の教師たちの多くは沈黙した。

 

 だが、中学部の村上中正氏らは、結婚差別、部落差別を許してはならないと行動し、請われて二人の仲人をする。
 勿論、謝礼を受け取らなかったのは、言うまでもない。

 

  人間平等を説く手話の鮮やかな印象

 

 結婚式当日、結婚を祝う多くの人びとの前で、仲人は二人を祝い、人間平等を話したことはその後語り継がれた。

 

 ヒヤリングの中で、村上中正氏の手話で人間平等を語る様子は今もこころに取り付いて離れないという元ろうあ協会の役員のの話があった。

 

 なぜか、ろう学校高等部の教師たちの出席は、ほとんどなく、後にろう学校高等部でこれらの真相を事実に基づいて究明されなかったとのこと。

 

  差別であったとするが
  差別をなくすことに至っていない

 

 京都ろう学校高等部の授業拒否事件は、差別であったとされながら、その後の事態は、差別をなくすことに至っていない。

 

 京都ろう学校高等部の授業拒否事件後の部落差別、結婚差別、ろうあ者差別などの問題に取り組まれなかったところに当時のろう学校高等部が抱えていた本質があるとする意見には肯定出来るものがある。

 

 村上中正氏は、これらのことを通じて、基本的人権が守られていない中にある差別をなくすことに傾注したようであったが、村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年にはそれらが整理されて提案されていないように思えるのだが。


 以下、意見を書かないで、村上中正氏の1971年試論では、1971年4月からはじまる「山城高等学校における聴覚障害生徒の教育保障」についてを紹介する。