村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論についての中間的解説。
村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟は、 村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求 についての概略的意見を綴っているものである。
戦後ろう学校で手話が禁止されていた
とする根拠なき空論
この1971年を思惟を綴っているのは、
1,戦後ろう学校で手話が禁止されていたとする根拠なき空論を検証するものである。幾度も述べる必要もないが、戦後、教育基本法で教育に対する行政の介入が禁止されていたことで、文部省や都道府県教育委員会は教育に対する直接的介入は出来なかった。
にもかかわらず依然とろう学校では手話が禁止されていたと繰り返し「発表」されている。
ろう学校の教師の教育
取り組みの中で手話への不問
2,問題は、ろう学校における教師の教育に対する取り組みの中で手話がとり入れられていたかどうかという問題であるが、このことを叙述する意見はほとんどない。
それは、戦後から1980年代にいたる残された諸文献などとヒヤリングを付き合わせながら事実と真実に迫る取り組みがなされていないからである。
調査、検証なく恣意的に断定する傾向は、排除すべきであろう。
3,ろう学校教育と普通校での教育とその関連の及びそれぞれの特徴を活かしながら教育を論じることがほとんどなされていない。
京都ろう学校高等部
授業拒否事件の真相の回避
4,京都ろう学校の若干の歴史を見てみても、京都ろう学校高等部の授業拒否事件の表層は述べられてもその本質に迫る意見はほとんど見られず、手話の可否問題だけで論じられているのがほとんどである。
しかも京都ろう学校高等部の事件であるにも関わらず高等部の生徒を支持し連帯し、教育の教訓を得た京都ろう学校の中学部の教師たちのことは「抹消」されていると言わざるを得ない状況である。
では、京都ろう学校高等部の授業拒否事件の時の高等部教師のほとんどは何をしていたのか、その軌跡は全くない。
「洞ヶ峠を決め込」んでいたとする記録はある。
時系列で見てみると高等部教師の一部は、京都ろう学校高等部の授業拒否事件が忘れ去られた頃にあたかも自分が関わったかのような文を書いているが、事件の時、自分は何をしたのかの記述は全くない。
書けない、という指摘があるのも頷ける。
以上のことを包括して、ろう学校、普通学校、教育とは、という基本を投げかけている村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求及びそれに対する若干の考察を提供しているのが「村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟」である。