村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
さらに、村上中正氏の1971年試論では、
さてこれから本論の「高等学校への進学と後期中等教育の要求」になる。
まず、村上中正氏は、「三人と共に二条中学校への編入を目ざしながら」「不許可になった生徒T」を「その後も聴覚保障について一定の配慮を払いながら高校進学についての検討を深めた。」とする。
エリートインテグレーションの項でのべた「成功した聴覚障害児」ではなく、それを{否定された生徒}から教育を考えようとする双方向の姿勢である。
インテグレーション 「不許可になった生徒」
「不許可になった生徒T」には、「公的な保障もなく聴覚に殆んど依存する環境での教育には大きな困難があり、そのうえ、現実的に全日制高校の選抜を考えた場合、働きながら定時制に通う道しか方法はない。そのことは、困難をいっそう大きくするものであることを充分とらえた」
として、生徒の高校への道を京都市立洛陽工業高等学校「定時制」機械科に入学するとしたが。
工業高校への入学の動揺
彼の入学の直前まで動揺をつづけた主な理由を
○コミュニケーションが成立するかどうか
○なれた仲間から離れ、ひとりで新しい仲間づくりができるかどうか
○今までのようにのんびりできないのではないか
をそのまま受けとめ教師として次のようなサポートをしている。
○聴くことへの努力と可能性
○新しい仲間づくりと連帯への展望
○自分に対するきびしさへの自覚
そして、彼自身が要求を提起していくことを教師として強調している。
合うか合わぬかはみんなで見きわめよう
だからまず積極性をもって
でも 厳しく突き放したのではない
これに対して生徒の
「高校での生活が合わなかったら聾学校に戻ってくる」
という姿勢に、
「合うか合わぬかは、みんなで見きわめよう。だからまず積極性をもってぶつかって行こう」
とアドバイス。それから二年経ったと記述している。
いつでもろう学校に戻ってきたらいいとしないで「合うか合わぬかは、みんなで見きわめよう。だからまず積極性をもってぶつかって行こう」と言うことは、生徒にとって厳しく突き放されたとも思えたのかもしれないが、教師としては決してそうではない。
その生徒を「見守っていた」あたたかさ
それは、
「高校に進学した彼は、まもなく第二年目を迎える。」
と書かれているところに村上中正氏が2年間その生徒を「見守っていた」ことが窺える。
インテグレーションを分断してとらえない
教育の連続の中で考える
この項は、とても大切な事が書かれているが、多くの人々に理解しがたいこともあるだろう。
二年経ったと記述、にはただ単に時間が過ぎ去ったこととして捉えがちであるが、村上中正氏のこれまでの記述を見ると微細に生徒の様子を捉えながらも巨視的も見ていたということが窺える。
その時、その瞬間だけの感情で考えることへの戒めとも言える。
「インテグレーションした生徒」の成長をどこまでもねがい続けながらも、いちいち干渉はしないが、教師として見まもり続ける姿勢がある。
ろう学校からインテグレーションした生徒は、ろう学校から断絶したり、ろう学校の教師も「ろう学校から去った」としたり、インテグレーションした先の学校の教師は「ろう学校がダメだから自分の学校に来たのだ」と断定したりする傾向がほとんどの時代。
村上中正氏は、生徒の動向だけで判断せず、教育全体のなかで生徒の育ちゆきをとられていたのである。分断して考えることなく。